激しい人馬の躍動が伝わるこの作品は、どのように描かれたのか。
伝えられる有名な挿話がある。
ダヴィッドがこの場面のポーズをとるようを求めたところ、ボナパルトは「肖像が本人と似ているかどうかは重要ではない。アレクサンダー大王は宮廷画家のアペレスのためにポーズなどしなかった。その天才がそこに息づいていればいいのだ」といってそれを拒んだという。
これにダヴィッドは答える。「あなたは私に絵画芸術を教えて下さいました。ごもっともです。シトワイヤン執政、ポーズなしで描きましょう」
肖像だけではないダヴィッドが残した遺産
1804年、ナポレオン・ボナパルトが皇帝の座に就くと、ダヴィッドは皇帝の首席画家に指名され、12月1日にノートルダム大聖堂で行われた戴冠式に出席した。その記録画《皇帝ナポレオン一世と皇妃ジョセフィーヌの戴冠式》は横が931センチ、縦が610センチという大作で、式典の3年後に完成した。
冠を受ける皇妃ジョセフィーヌを中心に皇太后や親族、緊張関係にあった教皇ピウス7世や皇族、重臣たちが、広い大聖堂の空間に当時のそれぞれの置かれた立場を映すような位置取りで描かれている。細心で細密なダヴィッドの筆触は、皇帝の誕生の瞬間を見事にとらえている。アトリエを訪れて完成した作品を見た皇帝ナポレオンはこう言ったという。
〈本当の式典の場面のようだ!これは絵ではない。画面の中を歩いているようだ。ここにいるのは私の母だ。よい瞬間を選んで描いたものだ。この絵は式典をよく再現している。教皇はよく似ている。ダヴィッド君、これはすばらしいものだ〉
「革命の記録画家」から転向した「皇帝の首席画家」として、ダヴィッドはこうしたナポレオンや宮廷をめぐる人々の肖像を描いた。そして、当然のことながら王政復古で皇帝が地位を失い、追放されるとダヴィッドも祖国フランスを追われることになる。
この記念碑的大作を完成させてから10年余りのちの1816年、ダヴィッドはブリュッセルへ亡命した。モスクワ遠征に失敗した皇帝ナポレオンが帝位に復したものの、ワーテルローの戦いに敗れてセントヘレナ島へ流されたからである。かつてルイ16世の処刑に賛成したこともあり、「皇帝の首席画家」が復活したブルボン王朝のもとで祖国にとどまることはできなかった。
とはいえ、画家は肖像画のほかにもナポレオンの〈遺産〉を残した。かつては自身のアトリエを置いたルーヴル宮に「中央芸術博物館」として開館した現在のルーヴル美術館である。