習近平との根本的差異
現実世界では、「もし」という仮定は意味をなさない。それは百も承知の上で敢えて、胡錦濤が次期政権の人事をめぐって妥協することなく、また、かつての集団指導体制が堅持されていたならば、という想像を膨らませると、トップに立った李克強は、従来からの彼に備わった「Virtu」である実務や調整の能力を活かしながら、国内問題の調整や世界との融和を可能にしたのかもしれない。言い換えれば、経済問題の深刻化、社会的自由の退潮、米中対立の加速といった問題は、現在ほど激化しなかった可能性がある。
しかし、現実には習近平という人物が政権を握り、10年という短期間で、それまでの集団指導体制を覆し、一個人への極端な権力集中による実質的独裁が確立された。そして、これを成し遂げた習近平の「Virtu」とは、李克強のそれとは根本から性質の異なるものであった。
共産党元老の息子(紅二代)である彼は、それゆえに文革期には家族ともども辛酸をなめることになった。しかし彼は、その経験を武器としつつ、政治の本質である権力闘争を生き延びるのに必要な、そして良くも悪くも一段の高みをきわめるために必要な、政治リーダーとしての本能を備えていた。それは李克強や共青団といった、秀才型・実務型である党国家の官僚エリートが持つ能力とは、まったく異質な属人的才能である。
そして、この二つの根本から性質の異なる才能は決して交わることなく、むしろ一方が政治体制を集団指導制から自身への権力集中に転換しようと試みるなかでは、もう一方が駆逐される運命にあった。その権力闘争において勝るのは、言うまでもなく習近平の持つ「Virtu」である。
その意味でも、李克強の「Fortuna」は10年以上も前から尽きており、習近平には今日でもそれが輝き続けているのである。もっとも、これが今後の習近平、そして彼が絶対的権力を掌握したことで一蓮托生となった中国、さらにはその行く末の影響を受ける世界にとって、どのようなかたちで作用してゆくのかは、もちろん結論が出ていない。
現在、中国政府は1976年の周恩来や89年の胡耀邦の死去が、体制に対する民衆の自発的抗議運動に発展する契機となったように、同様の事態が発生することを極度に警戒しており、これを慎重かつ全力で抑えこむであろう。そのため李克強に対しては、早くも11月2日に北京で葬送が営まれ、荼毘に付される予定となっている。
こうして彼は、時勢を掴めなかった首相として記憶され、静かに歴史の彼方に向かって消えることになる。それがまた、彼にとっての「Fortuna」だったのであろう。(本文一部敬称略)
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