2024年11月22日(金)

チャイナ・ウォッチャーの視点

2023年11月1日

首相就任以降の陰り

 しかし、07年には党中央の政治局常務委員となったものの、この頃には彼の「Fortuna」に限りが生じつつあった。胡錦濤の後継者の座をめぐって、党国家の官僚エリート集団であった共青団と、前国家主席である江沢民の上海閥、軍部、その他の党幹部集団たちとのパワーゲームが激化し、その影響を受け始めたのである。

 そして08年には副首相に就任するが、次第に党内での情勢や序列は、共青団と対立する各派閥を背景につけた習近平の優位が確立されていった。この結果、12年の党大会では習近平が党総書記に就任し、翌年の全人代では習近平国家主席・李克強首相という体制が固まる。

 ところが、独自の基盤を持たない習近平が、自らが政権を握った途端に開始したことは、党内のあらゆる派閥を弱体化させ、自らの権力を確立することであった。このため習近平は、強烈な「反腐敗運動」によって、旧来型の既得権益層である党幹部集団に重大な打撃を与えると同時に、返す刀で人事面などの抑え込みなどを通じて、共青団の勢力も削いでいった。

 こうしたなかで、国務院を掌握する李克強に可能であったのは、首相としてこれまでの改革開放を堅持し、進歩的な経済運営を重視することで、習近平との違いを際立たせつつ、共青団の実力と存在感を示すことであった。

 こうして李克強は、従来の高度成長から安定成長への転換を目指して、短絡的な景気刺激を避けると同時に構造改革の推進を試み、さらには投資環境の整備や政策透明性の確保・向上にも努めようとした。これは海外からも「リコノミクス」と称されて、一時期は期待を集めた。

 だが、権力集中を進める習近平にとって李克強の政策は、その真意も含めて目障りなものであった。このため李克強と共青団の勢力を弱体化させるため、中央財経領導小組といった経済政策の重要機関や関連する各種権限を、徐々に国務院から奪っていった。そして18年以降は、習近平の個人的な経済ブレーンであった劉鶴副首相が、国家の経済運営を担うことになる。

 こうして実権を奪われていった李克強だが、大規模災害が起これば現地で陣頭指揮を執り、また市井の人々と親しく交流する姿勢を見せるなど、首相として出来る限りを尽くす姿勢は変わらなかった。一方で、20年には「6億人の月収は1000元程度でしかない」と述べ、習近平による脱貧困社会達成の喧伝に疑義を挟み、22年には「防疫至上で経済を滅ぼしてはならない」と主張し、やはり習近平のゼロ・コロナ政策を牽制するなど、せめてもの抵抗を試みている。

 だが昨年10月の党大会で、同じく共青団出身の汪洋と政治局常務委員から外され、今年3月には首相の地位を追われたのであった。退任前、国務院の職員向け挨拶で、李克強は次のように述べたとされる。「人が何をしているのかを天は見ている」と。


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