とはいえ、産業医の勧告権についても、謙抑的であるべきとも解される。労働安全衛生規則第14条第3項は「産業医は、第一項各号に掲げる事項について、総括安全衛生管理者に対して勧告し、又は衛生管理者に対して指導し、若しくは助言することができる」としている。すなわち、勧告の前に、まず事業者と労働者双方から意見を聴取して、衛生管理者に口頭での指導・助言を行うなどの方法をこころみて、それでもなお改善がないときのみ、勧告すべきと考えるべきと解される。
おそらく、産業医が勧告権を行使しようとすると、即座に「関係者から意見を聴け」、「勧告より指導・助言が先だ」というような批判が来るであろう。多くの産業医は非常勤の立場にすぎないから、単独で社内調査を行えるはずがない。そうすれば、医務室・人事部等を通して、調査を依頼することになる。
しかし、その結果は、おそらくは「性的虐待の証拠は見いだされなかった」「ヘアアイロンの件は、看護師によると痕には残らない程度のやけどだった」「下半身露出・カメムシ食いなどの有無については、誰が話したのかもわからないし、すべて伝聞情報であり、実際にそのような発言があったことは確認できなかった」という報告が得られるだけであろう。それに対して、産業医が「調査が不足している」といっても、「そのようにおっしゃっているのであれば、その証拠となるものをお見せいただくようお願いしたい」と言うであろう。すなわち、立証責任は被害者側にあるとするスタンスである。
勧告権を行使したその先
それでも産業医は、勧告権を行使することができる。ただし、刺し違える覚悟は必要である。
勧告権を行使した場合、「事業者は、勧告を尊重しなければならない」(労働安全衛生法第13条の5)と記されている。この「尊重」については、産業医勧告を受けて、事業者は「実際に何をしたか」、あるいは、「しなかったか」を文書に記して、その理由も付記して、衛生委員会ないし安全衛生委員会に報告しなければならないとされる。
しかし、ありえる報告としては、「詳細にわたる調査を行い、慎重に検討したが、性的虐待(もしくは熱傷、下半身露出・カメムシ食い等)の証拠は見いだせなかった」との文言が記された紙切れ一枚が作成されるだけであろう。
勧告権を行使した産業医は、その後どうなるのか。労働安全衛生規則は、勧告権行使を理由とした不利益取り扱いを禁止している。しかし、その規定は、あくまで「努力義務」とされる。