2024年12月24日(火)

「永田町政治」を考える

2024年1月3日

 2024年を占うとき、国民の最大関心の一つは、いうまでもなく岸田文雄内閣が存続できるかどうか、だろう。

(kanzilyou/Image_Source_/gettyimages)

 安易な予測は禁物だが、岸田首相本人または岸田派にからむ深刻なスキャンダルが発覚したり、国会での予算審議が長期間にわたってストップすれば万事休すだろう。いいかえれば、そうならない場合は、大方の予想を裏切って〝低空飛行〟ながら持ちこたえるかもしれない。

 岸田首相は23年12月に党・閣僚人事を刷新し、新体制で年明けを迎えた。嵐の前の静けさか、それとも〝凪〟の始まりか。風の向きが気になるお正月だ。

ロッキード事件で退陣の三木内閣を髣髴

 岸田内閣の現状をみるにつけ、牽強付会の批判を承知であえて言えば、筆者はロッキード事件が遠因となって倒れた三木武夫内閣を連想する。

 米国の航空機製造会社、ロッキード社が自社機売り込みのために各国の政治家に賄賂をばらまいていたという驚くべきニュースが、1976年2月、日本にも伝わってきた。検察による捜査の手が政権党にまで伸びるのは必至とみられたが、当時の三木首相は「日本の政治の名誉にかけて真相を究明する」(衆院予算委員会での答弁)と表明。当初から積極的だった。

 自民党内では、首相の態度があまりに前のめりに映り、「はしゃぎすぎ」「惻隠の情がない」(椎名悦三郎副総裁、当時)など反発が強まった。

 7月末になって田中角栄元首相が受託収賄容疑で逮捕されるに及んで、事件を利用して政敵を追い落とそうとしたのではないかとの批判から、〝三木おろし〟に拍車がかかった。田中派、福田派など三木派、中曽根派を除くほとんどの派閥から300人近い議員が名を連ねて「挙党体制確立協議会」(挙党協)を旗揚げ、首相に退陣を迫った。

 首相は党人事・内閣改造で中央突破を図ったものの、反三木の急先鋒、福田赳夫副総理(当時、のち首相、福田康夫元首相の父)、大平正芳蔵相(当時、のち首相)らの〝干渉〟で差し替えを余儀なくされた。政権発足時40%前後だった支持率も20%前後まで落ち込んだ。

 首相は、それでも屈しなかったが、衆寡敵せず。執行部と挙党協の分裂で行われた12月の戦後初の任期満了総選挙で、自民党は19議席を失って過半数割れ。追加公認でかろうじて多数を確保する惨敗だった。

 粘りの〝二枚腰〟もこれまで、矢つき、刀折れた格好で退陣に追い込まれたのは、この年暮れ。74年12月から在任2年だった。後任の福田赳夫内閣は12月24日に発足した。


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