一方、長年のライバルと目されてきたソニーグループの株価は昨年12月に25年ぶりの史上最高値を更新しており、彼我の差は明らかだ。時価総額についてもソニーの約23兆円、日立製作所の約18兆円に対し、パナソニックは約4兆6000億円と大きく水をあけられている。
では「経営の神様」といわれた松下幸之助氏が創業し日本の大企業経営のお手本とされてきたパナソニックは、なぜ30年間にもわたり事業経営が停滞してきたのか。その背景や要因を知るには、まずは時計の針を30年前に戻す必要がある。
30年前にあったパナソニックとソニーの岐路
30年前の1994年春といえば、実は偶然だが、筆者が日本経済新聞社の米ワシントン駐在から帰国し、産業部電機担当キャップに着任した時期にあたる。まさにパナソニックの前身の松下電器産業やソニー、日立製作所、東芝などを取材する記者を統括していた。当時、発電所や鉄道などを製造するメーカーは「重電メーカー」、白物家電やテレビなどを製造するメーカーは「弱電メーカー」と呼ばれ、80年代に「VHS対ベータ」というVTRの規格争いを展開したパナソニックとソニーは後者の代表銘柄だった。
VTRの販売競争を通じ両社は映画などコンテンツの重要性を認識したことから、折からのバブル経済の余勢を駆って、ソニーは89年に米コロンビア・ピクチャーズ(現ソニー・ピクチャーズ)を買収、松下電器は翌90年に米ユニバーサル・ピクチャーズを傘下に抱える米MCAを買収した。新しいゲーム市場にも進出し、ソニーは94年に「プレイステーション」を発売、松下電器は米ゲーム大手、エレクトロニック・アーツ(EA)の子会社と組んで、ソニーより1年早く「3DO REAL」を発売した。94年3月期の連結売上高は松下電器グループが約7兆円、ソニーは約3兆7000億円とほぼ半分だったが、テレビやオーディオなど黒物家電分野では、よきライバルだった。
だが転機はそのすぐ後に訪れる。ソニーも松下電器も米映画会社の買収に巨額の資金を払ったが、部品コストを1円でも安くしようとする電機メーカーと、ひとつの映画制作に数十億円から数百億円を投じるハリウッドの映画会社とでは企業カルチャーが大きく異なる。言葉や文化の違う米映画子会社の経営陣にはソニーも松下電器も振り回され続けたが、そこで出された両社の結論は大きく異なった。
ソニーは94年11月に会計処理を変更、コロンビアの買収に伴うのれん代の3000憶円を特別損失として計上し、経営陣を入れ替えるなどして映画事業をソニー本体に取り込む決断を下した。それに対し松下電器は買収から5年後の95年にはMCAをカナダの飲料大手、シーグラムに売却してしまった。
事業継続の経営判断を分けた経営者の決断と才覚
ソニーはゲーム事業では任天堂や松下電器、セガ・エンタープライゼスなどに対し最後発だったが、プレイステーションは発売から半年で100万台を売る大ヒット商品となり、初号機だけで1億台以上を売って、家電事業とは異なる新しい事業の柱を獲得した。一方、松下電器の3DOはMCAの映画作品などをゲームソフトに採用し、滑り出しこそ好調だったものの、ゲームソフトのロイヤルティーはMCA側に入るだけで、ゲーム機の製造販売を担う松下電器には利益をもたらさなかった。その後、ゲームソフトの不足などから人気が低迷し、こちらも5年後の97年にはゲーム事業から撤退してしまった。
「ハードとソフトは車の両輪」とはソニーで米CBSレコードやコロンビアの買収を指揮した当時の大賀典雄社長がよく口にした言葉だが、映画やゲーム事業の明暗を分けたのはそれぞれの経営者の決断と才覚によるところが大きい。東京芸術大学出身のバリトン歌手から経営者に転じた大賀氏は音楽や映画をよく理解し、名古屋の造り酒屋の14代当主のもとに生まれた創業者の盛田昭夫氏もそうした文化事業に関心を持っていた。
一方、松下電器で映画やゲーム事業の幕引きを行った当時の森下洋一社長は、消費者向けの音響映像部門ではなく企業向け産業機器の「特機部門」の出身。コンテンツ事業から撤退した後は「事業の選択と集中」の名のもとに祖業の「ものづくり」に徹することになった。
