実は、ボルゴグラードの空港の名前に関しては、見逃せない前史があった。ロシアでは、各地方の空港に地元ゆかりの偉人の名を冠する方針が2018年に打ち出され、誰を選ぶのがふさわしいのかを決める市民の投票が実施された。その結果を踏まえ、2019年5月にプーチン大統領が44の空港の名前を正式に制定した。
たとえば、日本からも比較的近いハバロフスク空港であれば、19世紀半ばにロシア極東を探検した英雄にちなんでネベリスコイ空港という名が付けられた、といった具合である。ところが、ボルゴグラード空港に関しては、第二次世界大戦で活躍したマレシエフという当地出身の空軍パイロットが市民の投票で38%という最多得票を集めたにもかかわらず、プーチンはマレシエフ空港への改名は見送り、くだんの空港は単に「ボルゴグラード(グムラク)空港」という名のまま残っていたのである。なお、グムラクというのは、羽田や成田と同じように、空港が建設された土地の名前だ。
当地の空港を、「スターリングラード空港」に改名したいという要望は、2014年頃から出ていたようである。おそらくプーチンは2019年の時点で、その余地を残すために、マレシエフ空港を選ばなかったのではないか。確かにマレシエフ氏は地元出身で英雄的な活躍をしたパイロットではあるが、「スターリングラード」というワードの魔力に比べれば地味と言わざるをえず、明らかに見劣りする。
妥協的なネーミング
注意しなければならないのは、今回ボルゴグラード空港の名前が変わったと言っても、実は「スターリングラード」は愛称のようなものであり、正式名称は「ボルゴグラード(グムラク)空港」のままであるという点だ。日本で言えば、宮崎空港に「宮崎ブーゲンビリア空港」と愛称を付けるようなものである。
もし仮に、2018年に打ち出された「空港に偉人名を冠する」という方針に沿って、今回ボルゴグラード空港が「スターリン空港」などと改名されたら、大騒動に発展しただろう。もちろん、プーチン政権はそんな無茶はせず、「スターリングラード空港」が通称としてつけられたにすぎない。
「スターリングラード」という語は、あくまでも大祖国戦争の苦難と栄光を象徴するものであり、それを使う際にロシアの人々は独裁者スターリンのことはほとんど意識していないということらしい。ナチス・ドイツの侵攻を受け、国家存亡の危機に立ったソ連は、スターリングラードでの勝利を起点に反攻へと転じ、ベルリンへと突き進んでいった。独裁者の評価とは別に、偉大なる勝利の出発点と位置付けられる「スターリングラード」は、その当時の地名とともに語り継がれるべきだ。ところが、最近まで「スターリングラード」の名を正式に冠した目ぼしいものは、「スターリングラード攻防戦記念公園」くらいしかなかった。
この状況は許容できず、せめて空港だけでもそのように名乗ってほしい。ロシアの愛国派には、このような思いがあったのだ。
そう考えると、今回プーチン政権は、むしろ慎重な選択をしたと言える。戦勝80周年のムードを演出するために、「スターリングラード」という切り札は使いたいが、街の名前をそれに変えるのはアナクロすぎて、巨大な物議を醸す。ならば、折衷案として、空港の名前を、しかも正式名称というよりも愛称を「スターリングラード」に変えるあたりが、丁度良い落としどころではないか。
戦勝80年に華を添え、愛国主義勢力を満足させつつ、一般市民の反発を買うこともない。おそらくはそんな判断だったのだろう。