国境線でソ連と接していた樺太では、戦争に負けるとロシア人から酷い目に遭うと以前から話されていたが、「ロシア人があんなにもすぐにやってくるなんて思いもしなかった」と振り返る。
近藤さんの初めての空襲体験は、終戦後だ。疎開船に乗るため豊原(現在のユジノサハリンスク)に行ったところ、疎開船3隻がソ連の潜水艦に沈められたことを知った。その直後、ソ連機が来襲した。「たった5分早く移動したおかげで助かった」という。
その後の近藤さんの人生は、まさに波瀾万丈だ。戦後は林業技術者の伯父の世話になっていた。そこで9歳上の朝鮮人男性と出会い結婚した。
若い男性で樺太に残っているのは朝鮮人だけ。「恋愛もなにもわからない。面倒を見てくれる人がいたら誰でもよかった」と理由を語る。
1952年には生活のためにソ連国籍を取得。日本への一時帰国が認められたのは1990年のことだった。
国際政治に利用され、未来を拘束する戦争の記憶
二人の戦争体験を見てみると、空襲慣れした宮城さんは千葉県まで電車で海水浴に行っているし、海の家も営業していた。樺太で暮らす近藤さんは終戦まで空襲に遭うこともなく、平和な時間を過ごしていた。このような体験も、確実に80年前の現実の一部だったのだ。
8月ジャーナリズムで描かれる惨たらしい戦争の様相は、1945年の春から本格化した無差別爆撃、沖縄県での地上戦、広島・長崎への原爆投下、終戦直後の混乱の記憶をもとにして、拡大再生産されたものではないのか。
銃後と称された一般社会が悲惨な戦争状態に置かれたのは、わずか4カ月ほど。この期間を通じて、遠い戦地での出来事であった戦争が、爆撃と飢えという形で、国民一人ひとりの日常を直接脅かす「自分ごと」になったのだ。
戦争体験の多様性を直視せず、悲劇的な側面のみを強調する8月ジャーナリズムは、歴史の複雑さを単純化する危険性を孕んでいる。この問題は、単に日本国内の報道姿勢に留まらない。現在、各国が歴史を政治的に利用する「歴史戦」が激化している。
ロシアは2023年に「対日戦勝記念日」を「軍国主義日本に対する勝利と第2次世界大戦終結の日」に変更した。これは旧ソ連による対日参戦と北方領土占領を正当化するプロパガンダに他ならない。中国も9月3日に「中国人民抗日戦争・世界反ファシズム戦争勝利80周年記念式典」を開催し、トランプ大統領やプーチン大統領を招く計画を進めている。
こうした中露による「歴史戦」は、自国の政治体制と外交政策を正当化し、国際的影響力を拡大する狙いがあり、画一化された歴史認識を武器として使用している。
日本は、戦後80年を節目に8月ジャーナリズムから卒業すべきだ。そして、世界史の趨勢や当時の国際情勢を客観的に捉えて、多様な戦争体験を丁寧に参照して、複眼的な歴史認識を構築することが求められる。反省すべきことは反省しつつ、主張することは主張していくことで、歴史戦を乗り越えていかなければならない。
生まれる前の時代の責任を負わされ、子どもたちの未来までも拘束される。これが当たり前のことなのか、そろそろ本音で話してもいい頃だろう。
『わたしたちもみんな子どもだった』で海軍飛行予備学生の頃のお話を収録させていだいた、裏千家家元の千玄室さんが8月14日にお亡くなりになりました。謹んでお悔やみ申し上げます。
