2025年12月6日(土)

Wedge REPORT

2025年8月21日

 書籍のプロローグを「はじめに 『常識』とはなんのことか?」とした。和久井氏がオーラルヒストリーを蒐集するきっかけとなった、ソニー創業者・盛田昭夫氏の弟である正明氏(元ソニー生命保険会長)の話を導入に据えた。

 盛田正明氏は「夢に向かってまっしぐら」予科練に入り、18歳の新米パイロットとして終戦を迎えた。玉音放送を聴いた感想は「もう飛行機に乗れないかもしれないな」と、やっと掴んだ翼をもがれることへの不安と無念だったという。敗戦によって、軍人や官僚、技術者としての栄達が断たれ無念に感じた人が多かったことも、当時は当たり前に共有されていた事実だ。

 次に、「玉音放送ってなに?」というコラムを設けて、玉音放送の現代語訳とともに、8月15日の歴史的・国際法的な意義を説いた。今でも多くの日本人が8月15日に戦争が終わったと誤解しているが、玉音放送とは、天皇が国民にポツダム宣言を受け入れることを伝えた「大東亜戦争終結の詔書」を読み上げたものだ。

 炎天下、雑音混じりの玉音放送を聴き、敗戦の衝撃でその場に崩れ落ちる――。これは8月ジャーナリズムが作ったフィクションだ。「朕深く世界の大勢と帝国の現状とに鑑み」で始まる玉音放送は、玉音盤(レコード)の再生約5分間に加えて、玉音放送の解説、内閣告諭、関連ニュースなど約37分に及んだ。

 格調高い文語体で書かれた詔書の意味をすぐに理解できた人はごく少数で、多くの人は玉音放送後の解説や翌日の新聞で敗戦を知った。これも当時は当たり前の常識だった。

意外にあっけない子どもたちの戦争体験

 書籍には、当時子どもだった16人のインタビューが収録されている。和久井氏が取材した人はもっと多かったが、鬼籍に入られたり、書籍化を拒まれたりした方もいた。本稿では、少年と少女の物語を一つずつ紹介したい。

 一人目は宮城淳さん、田園調布生まれ。麻布の中学校在学中(13歳)に終戦を迎えた。玉音放送は中学校のアスファルトの校庭で聞いたが、「録音が悪いのかマイクが悪いのか、ピーピーガーガー言って、何も聞こえなかったわけ。それで『いったいこれなんじゃい』と思ったのを覚えてるね」と当時を回顧する。

 1945年3月10日の東京大空襲については「怖いとは感じなかった。ただ遠くの花火を見ているような気分だった」と話すが、ある日、夜中に物凄い地響きで眼を覚ますと、自宅横の田園コロシアムに直径10メートルほどの大穴が空いていた。「爆撃手がコンマ1秒ボタンを押すのが早かったら、自宅に直撃して、今僕はいなかったと思うんだ」と振り返る。

 興味深いのは終戦の夏の思い出だ。8月になると空襲もなくなったので、友達と一緒に「海水浴と潮干狩りに行こう」と電車で幕張あたりまで行き、母親も「行っておいで」と送り出したという。海の家が一軒だけ開いている海岸では蛤が取り放題。大きな袋に蛤を入れていると、対岸の川崎が爆撃され火柱が上がり始めた。

 宮城さんは「海の向こうだし、『こっちじゃないからいいや』とそのまま遊んで帰ったんだよ。空襲慣れしていたんだね」と、当時の日常を語る。そうやって、終戦の日を迎えた。

 二人目は近藤孝子さん、樺太生まれ。14歳の女学生として終戦を迎えた。樺太は石炭や林業、製紙業が盛んで、父親も林業を営んでいたため、戦時中も豊かに暮らしていた。玉音放送を聞いたのは、女学校の講堂。「みんなで聴きました。でも雑音が多くて、何を言っていたのかわからない。先生が『日本は負けた、学校は解散する』というので、家に帰ったんです。その時は家に帰るのがとにかくうれしかったことしか覚えていない」という。


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