2025年12月5日(金)

Wedge OPINION

2025年10月2日

立ち塞がった数々の壁……
荒波を乗り越えた歴史

 ムンド校には幼稚部から高等部まで、約220人のブラジル、ペルー出身の日系人が通っている。子どもたちの親は工場に勤務している派遣労働者が多いという。

 ムンド校では母国語と日本語のバイリンガル育成に力を入れている。物事を考える基礎はやはり、母語でなければならないという考えからだ。卒業生の中には愛知大学や名古屋外国語大学、東洋大学などへの進学者をはじめ、来年4月からは浜松市内の小学校教諭に内定した生徒もいるほか、米豪の大学進学者もいる。

 日本語授業の様子を見学すると、生徒の学年や習熟度に応じてクラスが細かく分かれており、教室ごとに別々の教師が、異なるテキストを用いて授業を進めていた。冒頭で紹介した高校生たちは、日本人でも満点を取ることが難しいとされる日本語能力試験「N1」レベルの合格者だ。

「鉄」という漢字を含む熟語を音読していた時の様子

 ムンド校の設立は2003年2月。そこに至るまでの道のりは決して平たんではなかった。荒波を乗り越えてきた歴史と言っていい。

 キーパーソンは、私財を投じてムンド校設立に奔走した校長の松本雅美氏である。1991年、四輪車、二輪車の大手メーカーであるスズキに入社し、人事部で日系人採用係として勤務していた。

 松本氏はこう振り返る。

 「当時は入管法改正で日系人を南米から直接雇用し始めた頃で、私のいたチームはいわゆる〝よろず屋〟。業務に関わることはもちろん、日系人の生活全般をサポートしていた」

 松本氏はその後、育児のために同社を退職し、横浜に移り住む。

 だが、自宅には日系ペルー人やブラジル人からの電話が鳴りやまなかった。母国では「『日本に行って困ったらマサミを頼れ』と、私の自宅の電話番号が勝手に回っていた」と松本氏は笑う。

 だが、より切実な問題は、彼らの子どもたちへの教育が十分になされていないことだった。

 「『日本の学校へ入ったが日本語が分からないから授業を理解できない』『日本の学校では一人ぼっちで寂しい』など、様々な窮状を聞いた。

 また、日本に出稼ぎに来ている親たちの中には、『どうせ帰国するのだから日本の学校に行かせても仕方がない』と放置したり、保育費を節約するために兄弟間で子守りをさせる親もいた」という。

 「大人の都合によって学習の〝空白時代〟をつくると、将来取り返しがつかなくなる。実際、母国でトップクラスの学力を誇った子どもでも日本語で学ぶハードルは高く、日本の学校で落ちこぼれるという事例も珍しいことではなかった」(同)

 こうした松本氏の危機感や彼らからの懇願もあり、生徒児童13人、ペルー人教師2人、ペルー人スタッフ1人、日本人スタッフ1人でムンド校はスタートした。

 だが、ムンド校はあくまで「私塾」扱いのため、行政からの補助金はなく、授業料や給食費、教材費、スクールバスでの送迎費などを合わせると、4万6000円の月謝が必要だった。多くの出稼ぎ労働者が入学を諦めざるを得ない状況だったという。松本氏は貯蓄を切り崩しながら、なんとか学校を運営していた。


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