ブラジルも同様である。第一回芥川賞を受賞した石川達三の『蒼氓』(秋田魁新報社)は、戦前のブラジル移民を題材にした作品として知られている。石川は神戸の国立海外移民収容所での人々の姿や「ら・ぷらた丸」航海中の苦悩と葛藤を小説として描いたが、実際、現地での生活はペルーと同様に過酷であった。
日本人排斥の憂き目にもあった。「30年代になると、ペルー社会は世界的な不況を背景に、排他的、民族主義的労働運動が高まり、不満の矛先が日本人社会にも向けられた。
さらに、太平洋戦争を経て、ペルー政府は42年1月、日本との国交断絶を通告。外交官や有力者らを拘束し、4月からは北米に強制送還を開始した。
20年代以降、現地では日本人学校が次々と開校していたが、『資産凍結令』によって、主だった日本人商店は強制的に譲渡・没収され、日本人学校では、日本語教育も一切禁止されることになった」(同)
こうした困難がありながらも、日系人はペルー社会に溶け込む努力を惜しまなかった。1990年に日系2世で技師でもあった故アルベルト・フジモリが大統領に選出されたことは象徴的な出来事である。
ブラジルでも戦後の移住者によって、農業の活性化が図られ、高度経済成長期には日本企業のブラジル進出に際し、日系人が仲介役になった。
〝ご都合主義〟やめ
日系社会の「宝」を生かせ
時は流れ元号が平成になった日本では1990年、政府が入管法を改正し、日系人の「デカセギ」を受け入れ始めた。バブル景気に沸く日本で、深刻な人手不足を緩和する目的があったのだろう。「日系ブラジル人」はその象徴でもあった。
しかし、2008年のリーマンショックにより、非正規雇用で働いていた多くの日系ブラジル人が職を失った。
こうした状況下、日本政府は09年4月から、帰国旅費30万円を支給する「帰国支援事業」を開始した。この制度は、「働き手としては歓迎するが、定住は望まない」という日本側の選別的外国人政策とされ、批判を浴びたことは記憶に新しい。
その後、日本の外国人労働者政策は、「日系人」から「技能実習生」や「特定技能」へとシフトしたが、根底にある日本側の〝ご都合主義〟は今もなお変わらない。日本は、いつまでこんなことを続けるのか。
井川氏は言う。
「日本が貧しかった戦前・戦後、様々な苦労を乗り越えながら現地に溶け込んだ子孫である日系人を、日本人はもっと大切にすべきだ。彼らは労働者であるとともに一人の人間であり、生活者でもある。そのことを忘れず、自立して生活できる支援を国も企業もしていく必要がある」
前出の松本氏も思いは同じである。
「そもそも日本には、どのような外国人を受け入れたいのかという国家としての明確なビジョンが見えない。これまでの政策の失敗を真摯に検証し、課題を一つひとつ解決していかなければ、ますます状況は悪化するばかりだ。今、日本人が母なる国を守れるかどうかの瀬戸際にある。自分の子どもたちの未来、外国人の子どもたちの未来をいかに守るか│。今こそ、外国人政策を軸に据え、『日本の再生』を本気で行う必要がある」
小誌取材班がムンド校で出会った子どもたちは、まさに先人たちが築き、守り続けてきた日系社会の希望そのものである。日本人は、日系人とそのコミュニティーというかけがえのない「宝」を、もっと未来のために生かすべきだ。
