限界にきた自民党への不満
公明党は価学会を母体とする「公明政治連盟」が前身で、1961年(昭和39年)に結党された。当時は55年体制下、中道路線を掲げ、日本社会党(当時、現社民党)、民社党(同、解散)と政策、選挙で協力する「社公民」路線の一翼を担ってきた。
72年の日中国交正常化の際は、当時の竹入義勝委員長が田中角栄訪中の露払いを務めるなど、政局のキャスチングボードをにぎる存在でもあった。99年、小渕恵三内閣時に自民党との連立を組んで以来、選挙協力、国会での政策協議で強固な協力関係を維持してきた。
党内には以前から、自民党への不本意な譲歩、協力を迫られてきたことに不満が鬱積していた。安倍晋三内閣の集団的自衛権容認では、支持母体の創価学会に慎重論が強まったにもかかわらず押し切られ、消費税の税率引き上げでも不満が残った。相次ぐ自民党の「政治とカネ」をめぐるスキャンダルにも悩まされ続けてきた。
斎藤氏は10日の記者会見で、「有権者に対し自民党議員を擁護し続けなければならなかった。限界にきた」と説明。西田実仁幹事長も「悔しかった」と批判を込めて語った。
高市総裁は斎藤氏との会談後、「政治資金規正法改正について直ちに回答するよう求められたが、総裁だけで決められる話ではない。そうなれば独裁だ」「一方的に連立離脱を通告された」(会談後のインタビュー)と不満を隠さなかったが、公明党の長年の不満、不信に誠意をもって答えてこなかった結果がこれだろう。
わからなくなった首班指名
公明党は首相指名選挙で代表の斎藤氏に投票する方針を決めているが、高市氏の指名が流動的になってきたことで、立憲民主党と各党の協議が活発化してきた。
衆院では自民、公明はあわせて220議席だが、自民だけでは196。立民、維新、国民民主は計210議席で、統一候補が実現すれば勝機は十分だ。公明党が野党側にくらがえするだけで過半数233を超えるが、斎藤代表はその可能性を否定しているから、今後の多数派工作の行方が結果を左右する。
立民の安住淳幹事長は10月8日、国民民主党の榛葉賀津也幹事長に連携を呼びかけ、同党の玉木雄一郎代表を首相候補とする案を提示したが、国民側は慎重な姿勢を崩さなかった。榛葉氏は「打算と数合わせで一緒に行動することはない」と述べ、にべにもなかった。
