「需要に応じた生産」が何よりも原則
就任会見で、鈴木農水大臣は「需要に応じた生産、これが原理原則」と繰り返した。
その通り、経済理論的には全く同感である。需要に応じた生産は、「生産者の義務であり、権利でもある」。俗に『余り物には値なし』とも言われる。
問題は、需要を「誰が」「どのように」把握し、生産に反映させるかである。 そして、それは国がやることではない。
「国の需給計画上の数字」が必ずしも正しい需要を表すとは限らない。現に、「令和のコメ騒動」の最中、「23~24年の数字は誤りだった」として、国は謝罪している。
真の需要とは、“市場が価格を通じて生産者に知らせ、生産者は市場で形成された価格シグナルを通じて必要な量を知り、生産活動を行う”のだ。しかし、現状は、「公開・公正な市場が存在しない」「または未成熟」なため、十分な情報が無い。これがコメ市場の混乱をもたらし、いまだ収束もしていない。
国が、コメの生産目安の設定や助成金を通じて「生産調整」、「減反」で介入をすることは、結局、「価格形成のシグナル」を歪めることに他ならない。
高市首相が総裁選で主張した「精緻な需要予測」
鈴木農水大臣の会見では、「需給見通しを制度の高いものに」「現状では不足感は解消されたと認識」としている。
需要は、市場の価格動向等を通じて把握する以外に道はない。国全体のインフレは別として、モノは、価格が上がれば足らない、価格が下がれば過剰、というのが市場のシグナルだ。自由な流通が大原則の今日、食管制度でもあるまいに「精緻な把握」など、国が行えるような代物ではない。
また、「主食用」や「業務用」「飼料用」などと用途別に助成金の格差を設けて高い流通障壁をつけたために、「用途限定米穀」などという用語が定着し、本来なら円滑な需給の調整を担う流通分野の機能を阻害し混乱をもたらした。そもそもふるい下のコメ(かつての通称はくず米)は食管制度下でも「把握困難・制度の対象外」としていたもので、いくら調査対象数を増やしても、不正確なデータしか集まらないだろう。かつて、食糧庁の大先輩が、「国がコメ需給をぴたりと合わそうなどとは、神をも恐れぬ所業である」と言っていたことを思い出す。
