スズキを世界を代表する軽自動車メーカーに育てあげ、2024年12月、94歳で亡くなった鈴木修氏の人生を描いた本である。経済界のみならず一般の人々にも強烈な印象を残した経営者であり、直接話を聞く機会はなかったが、遠くから気になる存在であった。
鈴木氏を長く取材したジャーナリストの手による本書を読むと、鈴木氏の飾らない人柄や経営スピリットを詳しく知ることができ、一時代を画した経営者だったことを実感させられる。
インド政府にも見せた鈴木の熱意
鈴木氏は終戦を姫路の特攻隊基地で迎え、昭和、平成、令和の時代を生き抜いてきた。もともとは小学校の先生だった。その後の銀行員時代にスズキ第二代社長の鈴木俊三氏に見いだされて鈴木家の婿養子になり、1958年4月にスズキに入社したことで自動車に関わる人生が始まる。
スズキの発展と修氏の人生が交錯する中、さまざまなエピソードが本書では紹介される。専務時代、当時、政界の実力者だった田中角栄氏を訪ねたくだりなどは印象深い。
「田中先生。お願いでございます。どうか、中小企業をお助けください。 排ガス規制で苦しんでいます」「うーん、で、君んところの会社は、従業員は何人おる」「ハッ、9500人ほど勤めております」~中略~「新潟県には、君、1000人の会社しかいない。 9500人の会社を潰したら、そりゃ社会問題だ。 浜松は大変なことになる」
スズキといえば他に先駆けてインドに進出した日本の自動車メーカーである。インド進出の交渉をわずか1カ月の短期間で仕上げたくだりは目をひく。スズキは75年からパキスタンで四輪事業を細々とやっており、幹部社員が往来を続けていたが、インドとの接点は、偶然にも、「飛行機の中でインド政府が国民車構想を持ち、パートナーを募集している」という新聞記事を見たのがきっかけだった。本書では鈴木氏の言葉をこう記す。
「インドは、パキスタンよりも人口が多い。ならば、自動車は売れる。また、人口が多くて国土が広い国は、政治が不安定でもクーデターは起こりにくい。なぜなら、広すぎて人が集まらないから」
こうした鈴木氏の考えに従って、既に募集期間が過ぎていたものの交渉し、補欠で候補に入れてもらったのがインドとの縁の始まりだという。
