戦後も続く苦難の道
開墾した「土地の重み」
戦後復興を終え、日本が高度経済成長期に入る60年代初頭、唯一の国際空港だった羽田空港は輸送能力の限界が指摘されていた。だが、羽田の拡張は制約が多く、新たな国際空港の建設計画が検討される。
政府は検討の末、千葉県富里村(現・富里市)を候補地として公表。しかし、この案に地元住民は強く反発した。反対運動が過熱し、富里案は事実上、暗礁に乗り上げる。
新空港の早期建設という最重要課題を前に、政府は次の一手を急いだ。代替案として浮上したのが、富里村に隣接する三里塚地区(現・成田市)と芝山町を中心とした「三里塚案」だった。民有地の買収を最小限に抑えるため、下総御料牧場と県有林を中心とし、規模も富里案から2分の1に縮小された。
しかし、この計画変更は、地元住民への意見聴取は行われず、事前説明がほとんどないまま、突然示された。住民、引揚者である農民にとっては青天の霹靂であり、〝ボタンの掛け違い〟はここから生まれた。
三里塚周辺は戦後、緊急開拓事業の一環で下総御料牧場の一部が開放され、満州からの引揚者や沖縄の戦争罹災者などが入植した。当時の入植者たちは「新窮民」と呼ばれ、昼は周辺農家の小作で生計を立て、夜は月明かりの下で鍬を振るい、土地を耕した。御料牧場に古くから生えていた巨木も人力で切り倒し、根を掘って、農地を切り拓いてきた。
沖縄の戦争罹災者は、天浪地区や木の根地区を中心に「沖縄農場」と呼ばれる開拓村を形成した。父親などの親族が沖縄農場で生活していた新垣譲著『地図から消えた「沖縄農場」』(論創社)によれば、最初の入植者は、一人当たり約1町歩の土地を鍬1本で耕し、畑に作り替えていったという。また、入植直後は食料もなく、乳飲み子を抱えている母親は母乳が出ないため、なけなしの古着や靴をヤギと交換してもらい、母乳代わりにヤギの乳で子育てを行ったという証言も残されている。
入植からおよそ20年、開墾が実を結び、農業で生計が立てられそうになった矢先、空港建設が告げられる。大切に開墾してきた土地を、十分な説明もないまま国が買い上げようとする姿勢に強い憤りを覚えたであろうことは想像に難くない。見方を変えれば、満蒙開拓で、生活の源である現地の人々の農地を奪い、反感を買った国策の誤りが再現されたと言っても過言ではないだろう。
それだけではない。政府や行政には、この地に住む人々を古くから存在する周辺の地域と比べて「土地への執着が薄い、貧しい人々」と見誤り、高値で買い上げ、代替地を用意すれば建設が容易に進むだろうという考えもあった。だが、引揚者にとって、そこは、生きるための「大切な土地」であったのだ。
78年、成田空港は滑走路1本で開港する。その後も対立は続くが、91年から公開で、国、空港公団、反対同盟(熱田派)、東京大学名誉教授・隅谷三喜男さんら5人の有識者による「成田空港問題シンポジウム」が開催された。議論の末、関係者の間で国側の土地収用裁決申請の取り消しを含む3つの合意が取り交わされた。裁決申請の取り消しは反対同盟の予想を上回る合意で、国・公団の強い決意の表れともいえる。以後、「成田空港問題円卓会議」など、地域と空港の共生を探る動きが徐々に成果を上げ、現在に至っている。
