2026年3月1日(日)

偉人の愛した一室

2026年3月1日

是清が家族と過ごし
最期を迎えた場所

 高橋是清の旧邸が建つ小金井公園では、この日、ケヤキ林で枯れ葉がさらさらと風に舞う。懐かしい武蔵野の風景である。

 帰国後、高橋は身につけた英語力をもとに官員や教職などに就く。だが、知人の勧めでペルーの鉱山開発に身を投じてこれに失敗、無一文となって帰国する。同じ知人の勧めによって日銀に入行し、金融マンとなったことから道が開けていった。

 日露戦争の始まる2年前、高橋は赤坂に念願の屋敷を設けた。敷地2000坪はかつて大名屋敷地だった一角である。時に45歳、学芸員の眞下祥幸さんの言葉を借りれば、これからもうひと働きという脂の乗り切った時期だった。

 入母屋屋根を頂く堂々たる車寄せから玄関へと入る。左手にある食堂は20畳ほど、高い天井、組み木の床に白壁を合わせる和洋折衷で、日銀副総裁の財力を感じさせる。

庭から見た是清邸。正面玄関側よりもガラス戸の多さがよく分かる
ガラス障子には当時珍しいシリンダー硝子が使用されている。表面のゆがみが時代の空気を今に伝える

 主屋の奥の間は4つの部屋と仏間に仕切られ、周囲を板敷きの廊下が囲む。南面と東面にはふんだんにガラスが使われて採光を図っているのだが、よく見ると表面にはゆがみがある。まだガラスが希少だった時代、武家屋敷を基礎としつつ、新しい時代の様式を取り入れていた。 

1階の仏間には寺社に見られる火灯窓がつけられている
1階の長押の釘隠しは内側と外側で意匠が異なる。内側には鳳凰と江戸の両替商の分銅があしらわれている。

階段を使って2階へと上がる。暗殺事件はそこで起こされた。

二・二六事件の現場となった主屋の2階。壮絶な襲撃事件があったとは思えないほどの静寂に包まれていた

 三間あるうち、広い15畳には夜間に使用人が詰め、高橋は二間で日常を過ごした。いずれも南向きで、縁に、ガラス戸が立てられている。

是清は2階の庭に面した二間を書斎と寝室に使っていた。 書斎には大きな洋机を置いて仕事をしていたという

 今に伝わる資料から、10畳間に絨毯を敷いて机と椅子を置き、書斎として使っていたことが知れる。階段に近い8畳間を寝室としていたのだろう。柱、鴨居、長押などに栂材をつかう総栂造りで、ことに書斎の床柱は天然木の絞り丸太が用いられた。見た目以上に金のかかった造りだといえよう。

政財界で辣腕を振るった是清は自宅ではとても家族思いだった(江戸東京博物館所蔵「高橋是清 自邸にて」)

 多忙な日々の中、高橋はこの屋敷に帰り、家族との食事や団欒の時を何よりの愉しみとした。食事の後で風呂を使い、2階でラジオを聞き、読書をした。晩年には孫を連れて庭を散歩する姿がよく見られた。

庭も当時の雰囲気を再現している

 暗殺の夜、2階に上がった青年将校らは寝ていた高橋を起こし、ピストルで胸を3発撃った後、6太刀を浴びせて惨殺する。「天誅!」と叫ぶ将校に対し、高橋は「馬鹿者!」と応じたという証言が残される。その後の歴史を思えば、愚挙の一語に尽きよう。昭和天皇はこの事件に激怒し、青年将校らの決起は国家に対する叛乱とみなされて鎮圧される。

 展示されていた写真をよく見ると、書斎には英字新聞がうずたかく積まれている。80を過ぎても講読を欠かさず、目を悪くしてからは、孫に英語を学ばせてまで目を通し続けた。そこから得られる世界の知識、そして何より英語力がその人生を支え続けたことを、高橋は生涯忘れなかった。

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Wedge 2026年3月号より
酷似する「戦間期」と現代 第三次世界大戦を防げ
酷似する「戦間期」と現代 第三次世界大戦を防げ

「新しい戦前になるんじゃないですかね」─。今から4年前、テレビ朝日の『徹子の部屋』でタモリさんが口にした言葉だ。 どのような意図で発言したのかはわからない。ただ、コロナ禍だった当時、全体主義体制を称揚するような空気が漂い、議会制民主主義の危機も顕在化し、「1930年代」に時代が近づきつつあると感じていた私は、その言葉に妙な〝重み〟を覚えずにはいられなかった。 昨今の様々な出来事を見るにつけ、その感覚は確信へと変わった。時代は、当時の「戦間期」を思わせる局面に入り、大国指導者が世界の行方、人類の運命を左右する時代になったのである。このままでは、最悪の場合、第三次世界大戦が起こる可能性も否定できない。 ただ、もし戦争になったとしても、大国指導者たちが戦場に行くことはない。いつも犠牲になるのは、市井の人々である。 英国を代表する歴史家、A・J・Pテイラーは、『ウォー・ロード 戦争の指導者たち』(新評論)最終章で日本のことを取り上げ、こう指摘している。「日本は戦争の指導者はただの一人もいなかった」 つまり、指導者不在のまま、日中戦争、太平洋戦争へと突き進み、日本は破滅したのである。当時、大衆も熱狂し、政治はそれに流された面もある。 一度始まった戦争を終わらせることは容易ではない。それは4年が経過したロシア・ウクライナ戦争を見れば明らかである。動乱の時代、今こそ歴史に学び、教訓、希望を見出し、この危機から「脱出」する必要がある。


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