是清が家族と過ごし
最期を迎えた場所
高橋是清の旧邸が建つ小金井公園では、この日、ケヤキ林で枯れ葉がさらさらと風に舞う。懐かしい武蔵野の風景である。
帰国後、高橋は身につけた英語力をもとに官員や教職などに就く。だが、知人の勧めでペルーの鉱山開発に身を投じてこれに失敗、無一文となって帰国する。同じ知人の勧めによって日銀に入行し、金融マンとなったことから道が開けていった。
日露戦争の始まる2年前、高橋は赤坂に念願の屋敷を設けた。敷地2000坪はかつて大名屋敷地だった一角である。時に45歳、学芸員の眞下祥幸さんの言葉を借りれば、これからもうひと働きという脂の乗り切った時期だった。
入母屋屋根を頂く堂々たる車寄せから玄関へと入る。左手にある食堂は20畳ほど、高い天井、組み木の床に白壁を合わせる和洋折衷で、日銀副総裁の財力を感じさせる。
主屋の奥の間は4つの部屋と仏間に仕切られ、周囲を板敷きの廊下が囲む。南面と東面にはふんだんにガラスが使われて採光を図っているのだが、よく見ると表面にはゆがみがある。まだガラスが希少だった時代、武家屋敷を基礎としつつ、新しい時代の様式を取り入れていた。
階段を使って2階へと上がる。暗殺事件はそこで起こされた。
三間あるうち、広い15畳には夜間に使用人が詰め、高橋は二間で日常を過ごした。いずれも南向きで、縁に、ガラス戸が立てられている。
今に伝わる資料から、10畳間に絨毯を敷いて机と椅子を置き、書斎として使っていたことが知れる。階段に近い8畳間を寝室としていたのだろう。柱、鴨居、長押などに栂材をつかう総栂造りで、ことに書斎の床柱は天然木の絞り丸太が用いられた。見た目以上に金のかかった造りだといえよう。
多忙な日々の中、高橋はこの屋敷に帰り、家族との食事や団欒の時を何よりの愉しみとした。食事の後で風呂を使い、2階でラジオを聞き、読書をした。晩年には孫を連れて庭を散歩する姿がよく見られた。
暗殺の夜、2階に上がった青年将校らは寝ていた高橋を起こし、ピストルで胸を3発撃った後、6太刀を浴びせて惨殺する。「天誅!」と叫ぶ将校に対し、高橋は「馬鹿者!」と応じたという証言が残される。その後の歴史を思えば、愚挙の一語に尽きよう。昭和天皇はこの事件に激怒し、青年将校らの決起は国家に対する叛乱とみなされて鎮圧される。
展示されていた写真をよく見ると、書斎には英字新聞がうずたかく積まれている。80を過ぎても講読を欠かさず、目を悪くしてからは、孫に英語を学ばせてまで目を通し続けた。そこから得られる世界の知識、そして何より英語力がその人生を支え続けたことを、高橋は生涯忘れなかった。
