「即座に引く」癖を育てたのは誰か
「福島県民としては廃棄した担当者を庇いたい。震災以降、風評被害もクレーマーも酷い。だから即座に対応してしまう悪い癖が染み付いている」
「赤飯の廃棄、もったいないことをとは思います。その一方で風評加害のことを考えると行政特定市民の指摘で逃げを打つのもまぁわかりますね。賛同はしませんが。」
これらは、今回の件を受けてSNS(X)で見られた声の一例である。この「理解」は、決して的外れではない。原子力災害以来、福島県内の行政・学校現場には、デマも含めた事実・客観性に乏しい言説と、それに基づく独善的な「正しさ」の押し付けと誹謗中傷、偏見差別に晒され続けてきた。
たとえば2015年秋に福島の浜通り地区で行われた、地元の中高生らを含めた清掃ボランティアが象徴的だ。中高生がゴミ拾いした場所は、自分達が通学する通学路であり、放射線量も低かった。ところが「殺人行為」「狂気の沙汰」などの誹謗中傷の電話やファックス、メールが約1000件も寄せられた。
清掃当日には白い防護服を着た活動家らが県外から押しかけ、被曝を「心配」したはずの中高生らの代わりどころか、一切手伝うことも無かった。わざわざ側溝の中で放射線量を測定したり、清掃中の人につきまとうなどの嫌がらせも多発したという。
近年でも、ALPS処理水の海洋放出を巡って「汚染水」などの喧伝が繰り返されてきた。海洋放出開始後は迷惑電話が福島県内の飲食店に1日1000件を超えて殺到し、行政窓口にも心ない言葉が届いた。その一部は今も続いている。しかも、これらの加害者は責任を問われることもなく、社会的な立場を失うことも無かった。
こうした「事あるごとに理不尽に叩かれた」「一方的な独善をぶつけられ、話が全く通じない」「社会が加害者を抑制せず泣き寝入りさせられた」経験の反復は、少なからぬ行政のトラウマになっている。結果、「亀のように頭を引っ込め嵐が過ぎ去るのを待つ」対応が常態化した一面もあるのではないかと推察する。
ただし筆者個人としては、これに「理解」はしても、同情は全くしない。子ども達を護るべき立場にある大人が電話1本に屈し、本来の主役に背を向けたからだ。
服部教育長は「1本でもそういう電話があった以上、何とかしたいと思った」と言うが、卒業の日に赤飯を楽しみにしていた2100人以上の子どもたちは、その意思決定の土俵に上げてすらもらえず透明化された。さらに赤飯の廃棄、無駄な非常食の使用、非常食の補充、そして代替品にかかる費用も全て、結局は市民の負担によって賄われる。
こうした事態がなぜ起きたのか。それは担当者個人の判断ミスに矮小化できる問題ではない。その深層にある構造的な課題──15年間の「風評対策」の欠陥に着目する必要がある。
