2025年3月11日、福島県いわき市立の中学校5校で、卒業祝いの給食として用意された赤飯およそ2100食が廃棄された。「震災の発生日に不適切ではないか」という趣旨の電話が届いたためだ。この連絡はわずか1人からの申し入れであった。
この一報が広まると、SNS上では廃棄判断に対する批判が相次ぎ、今も議論と市への抗議は続いている。3月17日付の朝日新聞報道によると、内田広之市長は「犠牲者を追悼し、大変ななか育てた親に感謝するのであれば、震災から頑張ってきた子どもたちの門出を祝う意味で(赤飯を出しても)問題なかった」とした一方、服部樹理教育長は「(甚大な被害があった)沿岸部の学校に配食するものとして非常に違和感を感じ、ふさわしくないと考えた。1本でもそういう電話があった以上、何とかしたいと思った」と判断理由を説明したという。
注目すべきは、この両者の見解が真っ向から分かれていたという事実だ。市長が「問題なかった」と明言したにもかかわらず、教育長の判断がそれを覆した。この発言が示しているのは、判断の基準が「子どもたちにとって何が正しいか」ではなく、「申し入れが来たかどうか」に置き換わっていたということである。
「1本でも来たら動く」という論理は、一見すると丁寧な市民対応に見える。しかしそれは実質的に、誰でも1本の電話で組織を動かせるという構造を意味する。
悪意ある申し入れも、事実に基づかない申し入れも、正当な申し入れも、すべてが同等の「重み」を持って扱われる。申し入れの内容ではなく、申し入れが「あった」という事実だけが決定のトリガーになる。これは意思決定の放棄に等しい。
さらに市長と教育長で判断が割れたという事実は、今回の廃棄決定が組織として熟議された結論ではなく、教育委員会内の判断が実質的に単独で進んでいたことを示唆する。子どもたちの卒業給食という重要な決定が、誰の承認のもとで、どのプロセスで覆されたのか。その意思決定の経緯は、もっと問われてよい。
この問題の背景には、福島県外からは見えにくい構造的な歪みがある。筆者はいわき市で小学生時代を過ごし、原子力災害前から今も福島に暮らし続ける一人として、被災自治体の15年にわたる「復興対応」の歪みが生み出した負の側面を感じずにはいられない。
