画家の運命を翻弄した戦争
「われわれもどこかに逃げなくては。弦ちゃん、汽車の切符も手配したし、昼の弁当のチキンも焼いたから、これから一緒に行こう」
そう言って誘いに来た藤田は、かつて住んだことのある南フランスの村、レゼジーへの移住を手回しよく決めていた。妻の君代を伴い、トランクを二つ持ったおかっぱ頭の藤田とともに、猪熊夫婦はパリを離れた。1939年9月のことであるである。
レゼジー村にはフォンドゴームの古代遺跡があり、5万年以上前のクロマニヨンの時代に人類が描いたというマンモスや馬などの壁画が、洞窟の中に残されている。
「ここで石窟の壁画でも見学しながら暮らそうよ。もしパリが陥落して帰れなくなったら、弦ちゃん、俺たち4人で百姓にでもなろうじゃないか」
藤田はいかにも楽天的にそう言ったが、片田舎の村はすでに国民総動員令が布告されていて、残されているのは老人と女性と子供たちばかりである。洞窟の壁画を探してみて歩く日々が過ぎるうちにも戦火は激しくなり、ドイツが占領したアルザス・ロレーヌなどの地域から貨車に乗った避難民が続々到着して、小さな村はたちまちあふれかえった。
絵を描くどころではない。滞在資金も次第に乏しくなったのでいったんパリへ戻り、日本へ引き揚げようと藤田は提案して、宮本三郎らとともに一足先に帰国した。
猪熊夫婦が最後の帰国船「白山丸」でマルセイユから帰国の途に就いたのは、その1年後の40(昭和15)年の春である。このころ、猪熊がパリ時代に何とか仕上げたかったのが、夫人の友達のハンガリー女性をモデルにした《マドモアゼルM》である。紺青の服を着て両手を組み、意志的なまなざしをなげかける女性像はピカソの「青の時代」を貫く清冽な勁さに重なり、大戦の砲声が背後に迫る緊張がどこからか伝わるようでもある。
かくしてマティスとピカソという巨匠たちとの思いがけない遭遇と「モンパルナスの寵児」と呼ばれた藤田嗣治の友情に包まれた画家の「フランスの休日」は、迫りくるナチス・ドイツの軍靴の響きに遮られて、2年という歳月のうちにあわただしく閉じた。
〈戦争〉は多くの画家たちの運命を翻弄した。
大戦の勃発とドイツ軍のパリ侵攻で一足先に日本へ向かった藤田は、帰国するとその売り物だったおかっぱ頭を刈り上げ、丸坊主になって総力戦体制に同調していく。
軍部の肝いりで生まれた陸軍美術協会の役員になり、戦争翼賛絵画の旗を振った。
40年9月には前年に起きたノモンハン事件の戦闘画を軍から要請され、取材のために陸軍嘱託として中国大陸へ派遣された。日本軍がソ連に大敗して戦局を大きく変えた、中ソ国境地帯の戦場近くに出向いてその記録画を描いた。
それから、かの伝説的な戦争画となる『アッツ島玉砕』にいたるまで、藤田は中国大陸や仏印各地、シンガポールなどの戦地に赴き、戦争記録画を次々と手掛けた。
〈絵画が直接お国に役立つということは何という果報なことであろう。国民を慰めようとする絵画と国民を強くする絵画とはその差も大なるものがある。未だに世間では戦争画を芸術でないといい、または別個のように見なしている輩も無いではない。戦争画において立派な芸術品を作り出すことは不可能な事ではなく、また吾らは努力して作り出さなければならぬ〉
藤田は雑誌「新美術」の43年2月号にこのように記している。
「素晴らしい乳白色」で「エコール・ド・パリの寵児」と喝采を浴びた藤田は、舞い戻った祖国で戦争翼賛美術運動の中心的な役割を担って、皇国日本の新たな顔となった。
悲惨な戦地で見つける「美しいもの」
もちろん、後れて帰国した猪熊とて戦争と無縁ではありえなかった。
日本へ戻った翌年の41(昭和16)年に軍部から従軍の命令を受けて、まずは文化視察という名目で中国戦線へ1カ月ほど派遣された。従軍画家としては翌42年にフィリピン、続いて43年にはビルマ(現ミャンマー)へ派遣され、「作戦記録画」と呼ばれる戦線の報告を描くことを求められた。
フィリピンのマニラ湾に浮かぶコレヒドール島は激戦ののちに陥落した直後で、戦闘で犠牲となった兵士たちの死臭が漂い、破壊されて荒れ果てた風景が南国の強烈な光の中に広がっていた。ひしゃげた自動車やオートバイが道端で焼けただれて、タイヤが転がっている。そこには、明るい色彩が画面いっぱいに散りばめられた、優美なマティスの世界とはほとんど対極の荒廃した戦場の眺めが生々しく息づいていた。
にもかかわらず、画家はそこに「美しいもの」を見るのである。
〈翌朝、空が白み始めると脳天を射すくめるようなむごたらしい光景が次第に目の前にあらわれ始めた。すさまじいなどというものではない。悲惨という言葉も実態にはそぐはない。酸鼻のきわみではあった。だが半面、それは何と美しかったことであろう。あらゆるものが原形をとどめること影もなく破壊され尽くしている中に、ポンと一つころがっていた兵隊用の缶詰の缶をみつけた。それがまるで宝石のように美しく思われた〉
「絵描きとは因果な性を持っている。無残な光景といえども、ただ目新しくて、右に左にと視線を泳がせていると、それまで目にしたことのない美しさをつい見出してしまう」と、画家はその経験を振り返っている。
