2026年4月4日(土)

絵画のヒストリア

2026年4月4日

 戦場で機械的なものが死滅してゆく中で日本兵が一人、突撃してゆく姿を描いた戦争記録画『硝煙の道』を完成させると、続いてビルマ戦線への動員が下った。過酷なタイとビルマの間での泰緬(たいめん)鉄道建設の記録画制作が目的だったが、環境はさらに過酷だった。

 小型に粗末なプロペラ機で熱帯の密林をかいくぐり、トラックで最前線の兵舎にたどりつく。一帯はコレラが蔓延しており、衰弱した身体でジャングルをたどりながら、そこで垣間見る猛々しい自然や極彩色の蝶や虫、珍しい鳥が彼の眼を楽しませた。

 下絵がどうにかできて帰国する段となって、送別の席で部隊長が猪熊に問いかけた。

 「こんな戦地にいても、猪熊さんはどうして毎日そんなにニコニコしているんですか」

 画家はこう答えた。

 「別にニコニコしようと思っているわけではないが、見たこともない大自然の景色が珍しくて、絵描きとしては幸福です。つらいときでも、まわりの美しいものが目に飛び込んでくると心が安らぐのです」

戦後、「絵画は消滅するかもしれない」という予言

 敗戦後、藤田嗣治と猪熊弦一郎は対照的な道を歩んだ。軍部の意向を受けて戦争翼賛美術の指導的な立場を担い、戦争協力の責任を問われた藤田は世論に追われるように日本を去った。連合国軍総司令部(GHQ)の協力でニューヨークへ移住したあと、〈エコール・ド・パリの寵児〉の故郷フランスへ帰化、生涯を閉じた。

 一方の猪熊は戦後、あのマティスの呪縛から自由になって次第に抽象とパブリック・アートといった表現に新しい境地を開いてゆく。

 その代表的な作品が、いまも東京・上野駅のホールを飾っている壁画『自由』である。

(Hiro_photo_H/gettyimages)

 敗戦後の荒廃した空気の下で、北海道や東北と東京をつなぐこのターミナル駅は集団就職や出稼ぎで上京する人々、都会への夢と失意を抱えて帰郷する人々の交差点だった。

 猪熊はそうした世相をとらえて、北方の猟師や海女やリンゴ農家の人々、都会から東北へ向かうスキーヤーといったこの駅を行き交う乗客たちとその周囲をモデルにして、鮮やかな水色を背景のもとに新たな時代に生きる群像を描いた。51年、ベニヤ板にペンキという素朴な造形は、いまも上野駅の風景の一部となって穏やかに人々を眺め続けている。

「華ひらく」( 提供:三越伊勢丹 撮影:玉村 敬太  許可のない転用を禁ず)

 そのころ、注文を受けて描いた百貨店の老舗、三越の包装紙「華ひらく」のデザインも、戦後の猪熊のパブリック・アートのひとつの到達点であったろう。今でも使われている柔らかな曲線が描く淡い紅色の上品な造形は、その後に広がる戦後社会の豊かな広がりを暗示するかのような、パブリック・アートのもう一つの展開であったに違いない。

 戦後、具象と抽象の間をさまよっていた猪熊は55年8月、妻の文子を伴って日本を離れ、ニューヨーク経由で再びパリへ遊学する計画をたてた。マティスという巨大な影から自由になって、もう一度自分にとっての絵画表現とはなにかを確かめたい――。実に52歳の再出発である。

 ところが、しばらく立ち寄るつもりで訪れたニューヨークという都市の空気が彼を虜にした。下町の落書きや傷んだ広告のポスター、街角にあふれる商品の宣伝の看板やネオンサイン‥‥。すべてが生き生きとした言葉となって降りかかる。

 〈この街は虚飾というおごった感じがなかった。飾りっ気が何もなく、自分の生活に必要なものだけで済ませている。だから非常に人間臭い。風はいろいろの所でよどみ、発酵しているようだ。空気は汚れ、そこから何かガスさえ噴き出している。よくいえば底に何かがひそんでいる力である。人間の垢や体臭などいろいろなものがまじりあった巨大なかたまりが、ニューヨークなのだった〉

 マーク・ロスコやリチャード・リンドナーといった、その時代の米国を代表する美術家と出会って、それまでの自作はいかにも弱弱しく映りはじめた。

 画家は米国という新たな天地で抽象の世界に舵を切った。身近な家族としての〈猫〉に自身の「世界」を見出した猪熊は、戦争と戦後を通して日本人を大きく揺るがしたこの文明に出会うことで、ダイナミックな造形の〈革命〉の渦に身を委ねる。「絵画は消滅するかもしれない」という、晩年のマティスの予言をかみしめながら。

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