寝耳に水の「登板回避」通告
「佐々木朗希」の名前が全国の高校野球ファンに知られるようになったのは、高校3年となった19年4月のことだ。全国から有望選手を集めた「U-18高校日本代表」の第1次選考合宿の紅白戦で、公立の大船渡高から参加した長身右腕が163キロの快速球を記録した。すでに大リーグ・エンゼルスで活躍していた同じ岩手出身の大谷の高校時代を上回る、日本最速のスピードボールだった。
春先から夏にかけ、高校野球の話題の中心は佐々木一色に染まっていった。190センチの長身から左ひざをあごのあたりまで高く上げ、右腕を鞭のように鋭くしならせ振り下ろしていく。
豪速球に加え、縦と横のスライダーに落差の大きなフォークボール。佐々木の登板日にはスピードガンを持参した日米のプロ球団のスカウトが大挙して訪れた。
最後の夏となる岩手大会。佐々木の大船渡高は順調に勝ち上がった。2戦目となった7月18日の一戸戦は六回参考記録ながらノーヒットノーランを達成。4回戦は21日、第2シードの盛岡四と対戦、延長十二回までもつれたが、佐々木自身の右翼席への2点本塁打で試合を決めた。21個の三振を奪い、投球数は公式戦自己最多の194球に達した。
翌22日の準々決勝の久慈戦は佐々木抜きのメンバーで戦い、2試合連続の延長戦の末、十一回に2点を奪って勝ち上がった。準決勝からは2連戦。24日の準決勝の相手は一関工。中2日の休養をもらった佐々木は球威より制球重視の投球で一関工を129球で完封。翌日の決勝進出を決めた。
そして迎えた25日の決勝戦。対戦相手は大方の予想通り2年連続10度目の選手権出場を目指す花巻東だった。佐々木は試合当日の朝、國保監督からこう告げられた。「今日は先発では起用しない」。チームメートも「佐々木外し」は寝耳に水だった。
監督と選手の間の深い「溝」
代わりに先発したのはチーム内で4番手に位置付けられる下手投げの変則右腕柴田貴広だった。初回から花巻東打線につかまり、2、1、1、0、1、4と六回までに9点を失った。打順からも外された佐々木は、監督が自分を起用する気がないと察したのだろう。ブルペンに行くこともなく、ただベンチで声を出すだけだった。
12-2で大勝した花巻東が代打や代走、投手交代などで計15人を使ったのに引き換え、大船渡の選手交代は七回から二番手投手がマウンドに上がっただけ。ほとんど策もなく10人の選手で戦いきった。
國保監督に「勝ちたい」という気持ちがあったとは到底思えないほど淡泊すぎる完敗だった。試合終了後、大船渡ベンチには観客から「甲子園に行く気はないのか」など厳しい声が飛んだ。
<試合終了直後、グラウンドで報道陣に囲まれた國保は、その理由を明かした。「故障を防ぐためです。ここまでの球数、登板間隔、気温……投げられる状態にあったかもしれませんが、私が判断し、投げさせませんでした。もちろん、私が『投げなさい』と言えば、本人は投げたと思うんですけど、私にはその判断が出来ませんでした。展開次第で、試合途中からマウンドに上げるつもりもありませんでした」>(7~8頁)
國保は盛岡一高の出身で、筑波大学を経て米国独リーグも経験した野球人。体育教師となり、佐々木らが入学した年に大船渡高校に転勤となり、その年の秋、野球部の監督に就任した。
「故障を防ぐため」。決勝で佐々木を使わなかった國保監督の説明は、この一言に尽きる。だが、春以降、何度も岩手に足を運び、大船渡の戦いを見てきた著者は、疑問符だらけの國保監督の采配に強い違和感をおぼえていた。
