2026年7月27日(月)

スポーツ名著から読む現代史

2026年7月27日

<國保の舵取りは、本当に選手たちの信頼を得ていたのか――その疑問がぬぐえないのだ。佐々木や佐々木と共に甲子園に行こうと大船渡に集まったナインとの信頼関係が、決勝の段階で崩壊してしまっていたという強い疑念がある。ベンチには、現場にいなければ伝わってこない暗澹たる空気が漂っていた>(14頁)

 5月の春季県大会。夏の大会のシードを決める大会だが、大船渡は1回戦で佐々木を温存し、控え投手を延長十回まで一人で投げさせ敗戦。夏の大会はノーシードで戦うことになった。さらに夏の大会を10日後に控えた練習試合では、佐々木に2日間連投させ、しかも完投させた。消耗品と言われる肩の「無駄遣い」に映る。

<もともと、ベンチから積極的にサインを出す監督ではなかったが、(春の大会以降)完全な「ノーサイン野球」となった。監督が攻撃前の円陣に加わって選手を鼓舞するようなシーンはなく、打席に入った選手が、監督をまるで見ようとしない。選手と監督の間に、深い溝が生まれているように見えた>(19頁)

 「高校野球は部活動。圧倒的に佐々木のワンマンチームになりそうなところ、チームの総合力を上げたかった」と國保監督は報道陣に説明したという。日本中が注目する令和の怪物のワンマンチームにはならないように、チーム全員で戦おうと意識づける。――野球部の監督としてよりも、体育科の教師として國保監督にはそんな狙いがあったかもしれないが、「あと1勝で甲子園」という場面が訪れても、選手の声を聞こうとしない監督と選手の間には、すでに埋めがたい溝が出来上がっていったのは間違いない。

「継投」の時代

 佐々木の大船渡が出場を逃した第101回選手権。出場した49校のうち、地方大会を一人で投げ切ったのは愛媛代表鳴門だけだった。

 優勝した大阪代表履正社は左腕エースの清水大成と2年生右腕岩崎峻典の継投で勝ち抜いてきた。準優勝の石川星稜は、秋にヤクルトからドラフト1位指名される大黒柱の奥川恭伸だけでなく、2年生を含む3投手が奥川の負担を減らす継投で勝ち上がった。

 この状況を日本高野連の竹中雅彦事務局長(当時)はこう解説している。

<「ほんの少し前まで、『先発完投』が当たり前でした。それが継投策で勝ち上がる学校が顕著になりました。これはひとえに、指導者の意識の変化だと思います。つまり『障害予防』の意識が浸透し、その結果、継投が目立つようになった。その象徴的な出来事が、(大船渡の)佐々木くんの一件だと思います。今、高校野球は過渡期にあたり、その変化のスピードがとにかく速い」>(230頁)

 わずか1年前、平成最後の年に行われた第100回記念大会。一人の怪物投手が全国の野球ファンの胸を熱くした。秋田代表金足農の吉田輝星だ。

 秋田大会の5試合と、甲子園でも準決勝まで5試合をすべて一人で投げ抜き、1915年の第1回大会の秋田中以来103年ぶりに秋田勢を決勝まで押し上げた。決勝では大阪桐蔭の強力打線の前に力尽きたが、優勝候補の神奈川代表横浜や西東京代表日大三を相次いでねじ伏せた吉田の快投に甲子園ファンは熱い声援を送った。

<前年夏の甲子園の閉会式で、日本高野連会長の八田英二(当時)は、準優勝の金足農業について、「秋田大会からひとりでマウンドを守る吉田投手を他の選手がもり立てる姿は、目標に向かって全員が一丸となる高校野球のお手本のようなチームでした」と称賛した。それからわずか1年。「理想的」とほめたたえられたチーム作りへの評価が180度変わり、批判の対象となるのだ>(50頁)


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