2026年7月27日(月)

スポーツ名著から読む現代史

2026年7月27日

最年少で完全試合達成

 岩手大会から約1カ月後、佐々木は「U―18高校日本代表」のメンバーに選ばれた。韓国での世界大会を前に、大学日本代表と壮行試合が行われ、先発した佐々木は最速156キロの速球と鋭いフォークを使い、1回を2奪三振、12球で料理した。2イニングを予定していたが、右手中指のマメが影響して1回で降板。韓国での本大会でも先発して1回を無失点に抑えたが、やはり中指のマメがつぶれてわずか19球で降板した。

 佐々木本人が「故障」に対して鋭敏になっていたこともあるだろう。また、「日本の宝」ともいえる18歳を預かった日本代表の指導者も「大事に育てないと。自分が潰したくない」という思いが強く、佐々木を過保護にした側面があったかもしれない。良くも悪くも佐々木の「限界への挑戦」は回避され続けることになった。

 佐々木は19年秋のプロ野球ドラフト会議で千葉ロッテの1位指名を受けてプロ入り。ここでも故障を警戒するチーム方針に従って肩の酷使を避け、大事に育てられた。そのおかげもあって3年目の22年4月、日本のプロ野球では28年ぶりとなる完全試合を達成した。20歳5カ月での達成は最年少記録だった。

 ロッテではその後も肩を酷使することなく、佐々木は25年シーズンからポスティング制度を使って大リーグ・ドジャースに移籍した。1年目のレギュラーシーズンは本来の速球が戻らず、マイナーでの調整が続いたが、ポストシーズンは抑えで活躍、ドジャースのワールドシリーズ連覇に貢献した。

 2年目の今季は先発の一角として本来の力を徐々に発揮するようになった。大切に扱えば、それなりに答えを出す――今のところ、佐々木の評価その辺になるのだろう。

投手保護の施策相次ぐ

 佐々木の決勝登板回避で揺れた19年(令和元)は、高校野球の投手保護の施策が打ち出されるきっかけの年となった。日本高野連は「投手の障害予防に関する有識者会議」の答申を受け、翌20年のセンバツ大会から「1週間500球」の投球制限をルールとして採り入れることにした。結果的に20年は新型コロナウイルス禍の影響で春、夏の甲子園大会は開催されず、新規定は同年秋の大会から施行されることになった。

 その後も3日連続試合(3連戦)の禁止や、休養日を増やす大会日程の見直し、暑さ対策としての2部制導入など、選手の体調管理に配慮した様々な規定が生まれてきた。複数投手制に符合するように、甲子園のベンチ入り人数も23年から20人に増えた。

 7年前、佐々木の登板回避で全国の高校野球ファンから批判の集中砲火を浴びた國保監督の「決断」が、結果的に日本人最年少の「完全試合投手」と、岩手から3人目の大リーガー誕生につながった。

 さらに、高校野球では投手保護に向けたさまざまなルール改正の端緒となったという見方も、あながち否定できない。野球も万事塞翁が馬といったところか。

 

 

 

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