2026年8月17日(月)

世界潮流を読む 岡崎研究所論評集

2026年8月17日

 まず、戦争はやる意味のないものとなってきているというウォルトの指摘の妥当性について。ウォルトがこの主張をするに当たっては、22年以来のロシアのウクライナ侵略と、本年6月以来の米国・イスラエルによるイランへの軍事攻撃とが念頭にあることは間違いなかろう。どちらも、戦況は軍事行動を始めた側の想定の通りには進まず、前者は泥沼化しており、後者もそうなる可能性がある。

 一方、ロシアのウクライナ侵略と、米国・イスラエルによるイランへの軍事攻撃において、攻撃を受けた側(ウクライナ、イラン)が強靱性を発揮してきたことは事実である。しかし、ウクライナもイランも、ロシアや米国ほどの超大国ではないが、地域における大国である。軍備も充実しており、近年、戦闘の経験を積んできている。外国の攻撃に対して戦う意欲も強い。そうした条件は、どの国でも当てはまるわけではない。

 ドローンなどの技術の進展によって、防御側が攻撃をはね返すことがより容易になっているとはいえ、ウォルト自身が指摘するように、自衛のための準備を十分しておくこと、力の均衡を有利なものとしておくこと、信頼性のある抑止を維持することがあって初めてそれが機能する。従って、戦争はやる意味を失ってきている、というウォルトの指摘が成立するかどうかは、条件次第というべきであろう。

戦争は起こりにくくなるのか

 次に、今後、実際に戦争は起こりにくくなるのかというもう一つの問題は、さらに不確かである。「戦争とは、他の手段を用いた政治の延長である」というクラウセヴィッツの言葉には、戦争をしようとするからには、政治の手段として行うべきであり、明確な政治的目標があって、それを実現するために合目的的なものでなければならないという「あるべき論」が含まれている。しかし、現実には、それに当てはまらない状況であるにもかかわらず、戦争に至ってしまうことは往々にして起こっている。

 一方、それは、後から振り返ってそう言えるのであって、軍事行動をとった当時には、その時なりの理屈がつけられていたものである。これらの事例を振り返ると、戦争はあまり引き合わないということとともに、各国の国家指導者が過去の事例や他国の事例と同種の過ちを仕出かすことが往々にして起こっていることに思い当たる。

 多くの場合、国内の声がその原因となる。ウォルトが、この論説の締めくくりで述べているのは、イランへの軍事行動への痛烈な皮肉であるとともに、そうしたことが再び起こることがないようにとの願望であろう。

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