2026年8月30日(日)

橋場日月の戦国武将のマネー術

2026年8月30日

戦場での水の値段

 当時、京の町で商売する水売りは天秤棒に桶を下げ、1桶2文あまり(200円強)で売っていたというが、戦場となるとこれが天文学的に跳ね上がる。

 秀吉による朝鮮の陣=慶長の役で慶長2年(1597年)12月22日、蔚山城を守る加藤清正ら1万の日本軍が5万7000の明・朝鮮連合軍の包囲を受けたのだが、『朝鮮日々記』によれば2日後の24日には早くも「水に飢へ(かつえ)て迷惑」という、水不足の状態に陥った。手を洗うこともできず、雨水を器に受けたものに紙を浸して手を洗う代わりにぬぐう有り様だったという。これがウェットティッシュの元祖、なんてことは無いのである。

 この状況下、抜け目の無い商人たちは早速動き出す。『朝鮮記』という別の史料を見ると、水商人が城の二の丸の門の脇に現れて小さい桶に盃を添えて大声をあげて水を売ったという。

 その値、盃1杯銀15匁。なんと現代の価値で6万円にもなろうかという金額だ。小さいコップ1杯の水が6万円と言われても、人間、水が無ければ生きられない。

 おまけに米5升を判金10枚で売る米商人も出たという。おそらく慶長大判で10枚と思われ、その価値2000万円。こちらも茶碗1杯のごはんが20万円の計算になる。この極限状態で年を越し正月4日まで耐え抜き、援軍によって解放された。

 商人たちも敵の包囲をくぐり抜けるリスクを上乗せしているとはいえ、あまりにも高い水と米。おそらく竹田城の水売りも法外な金額を請求したはずだ。

(奴賀義治/アフロ)

 もっとも、竹田城は生野銀山の銀を貯め込んでいたと思われるので、太田垣輝延も銀の大盤振る舞いで水を買ったかもしれない。あ、買えば水不足で降参しないか。

 あまりに高くてすぐに銀のストックが尽きたんだろうか。そうであるなら秀長にとっては幸いな話。

生野銀山が生み出した「富」

 結局、3年後の天正8年になって但馬はようやく平定され、信長の完全な支配管理下に置かれた。秀吉は後に書状で「上様(信長)(が秀吉への褒賞として)但州金山(但馬生野銀山)、御茶湯道具以下取りそろえ下され」(天正10年10月18日織田信孝の重臣たち宛て)と書いているが、秀吉が信長から「茶会を開く資格を与える」と茶道具12種を下賜されたのが天正9年末だから、秀長が竹田城を落としてから1年半あまりの間に銀山も秀吉の所領となったのだろう。秀長は竹田城城代となり、兄の物となった銀山の管理を担うようになったのである。

 では、「羽柴兄弟!」の物となった生野銀山が生み出した「富」について、考えてみたい。戦国日本の銀が輸出されて、世界の流通量の3分の1を占めたというのは割りと知られている話だが、生野銀山が秀吉領となったと同時期の天正9年の石見銀山(大森銀山)産銀量は3万3072貫=銀子で3652枚(『毛利家文書』)。これに対する生野銀山の方はというと、同年2月に秀吉が正月分として銀50枚(1650匁)を受け取り、前年はトータル300枚受け取ったと読める運上銀の請取状が残っている。

 ということは、月あたり平均25枚と石見銀山に比べて12分の1程度に過ぎない。

 だが、これが慶長2年(1597年)になるとなんと6万2267枚=267万7481匁に激増しているのだから驚く(『慶長三年蔵納目録』)。但馬国内のもうひとつ中瀬銀山を合わせれば6万2617枚だ。


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