これに対して石見銀山を含む中国地方全体をひっくるめた産銀量は4869枚に過ぎない。この時の石見銀山は秀吉と毛利輝元の共同管理だから折半されて少ないのかとも思うが、同じ年に輝元は秀吉に3000枚の銀を献上しており、それがまるまる蔵に収まっていたとすれば2000枚足らずしか運上が無かった計算になり、さらに生野銀山が圧倒している形だ。
天正8年から慶長2年の間に、生野銀山の運上銀の金額は3300万円から535億5000万円へ、1600倍もの大幅アップ。
言うまでもなくそこには羽柴家が銀山を完全掌握し直接すべてを管理できるようになったことも大きいだろうが、当然ながら「羽柴兄弟!」が初期から銀山経営に大規模投資も行ったと推察できる。だから、天正10年の段階でもすでに開発は進められ、生野銀山は増産途上にあった。実際、4年後には多くの間夫(坑道)が新規開発されているのがその証拠だ。
銀が分けた!?天下分け目の天王山
天正9年12月、秀吉の姿は安土にあった。信長にお歳暮を届けようというのだ。『信長公記』はその様子を「御小袖数二百進上。そのほか、御女房衆かたそれぞれへまいらせられ、か様の結構おびただしき様体、古今承り及ばず、上下共耳目を驚かし候おわんぬ」と記している。当時、小袖は並品でも1着20万円前後はしたという。信長の奥向きに献上する極上の小袖であれば、その10倍はしたと思われるから、200着なら4億円。それは目撃した者や噂を聞いた者が全員仰天してもおかしくない。
これに満足した信長が、秀吉に与えたのが前記の茶器ひと揃いと茶会開催資格の下賜だったのだ。でも、生野銀山の産銀をバックにすれば4億円のお歳暮なんて訳も無かったはずだ。
天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変発生。ドラマでは秀長は京にいて遊女屋に身を潜めて難を逃れ、尼崎で秀吉と合流したが、史実ではどうだったか不明。
だがとにもかくにも秀長は兄と共に明智光秀との戦いに臨んだ……のだが、最近秀吉は山崎の決戦に遅参したという説が話題を呼んでいる。その当否は別として、もし本当なら秀吉が戦場に来るのを待たずにほぼ同数の明智軍に攻めかかった池田恒興や高山右近、中川清秀らの士気を支えたものは何だったのか。
