多くの出版社がボリュームに「恐れをなした」『ビーグル号航海記』。その新訳が今回実現したのも、09年のダーウィン生誕200周年と、版元の平凡社創業100周年記念出版という区切りのおかげだった。それがなければ、「たぶんいつ翻訳の踏ん切りがつくかわからなかったのである」と、荒俣さんは述懐する。
「私のように未熟な人間がこの大著を訳出する機会に恵まれたことは、天の配剤ミスとしか考えようがない」と、荒俣さんは謙遜するが、私としては、「ダーウィン×荒俣宏」のコラボレーションこそ「天の配剤」と感謝したい。
ダーウィンの心の動きをあますところなく
博物学の大家である荒俣さんの知識が十分なのはいうまでもない。加えて、日本語の言葉一つひとつが平明、かつ、いきいきと躍動し、22歳のまだ無名の、ただし無類の好奇心と観察眼をもちあわせた博物学者の心の動きをあますところなく表現して、よどみない。
たとえば、リオ・デ・ジャネイロ南東部にあるコルコバード山のそばに滞在した折。
<暑い日が何日もつづいたあと、庭に静かにすわって、夕暮れから夜になるのを眺めるのも極上の気分だった。自然はこの風土にあって、ヨーロッパよりもずっとつつましい歌手を選んでいる。小さなアマガエルの仲間が、水面上一インチあたりにある葉の上にすわり、ここちよい鳴き声で歌をうたう。合唱ともなると、それぞれが別々の音調を合わせてハーモニーをつくる。このアマガエルの標本を一匹捕らえるのに、ほんとうに苦労させられた。この仲間はゆび先に吸盤をもち、まったく垂直な窓ガラスに押しつけても、平気で這いまわれるのだ。さまざまなセミとコオロギが、アマガエルに合わせて、かん高い声を果てることなく絞りあげる。しかし、多少遠くから聞くその高音も、決して耳障りにはならなかった。毎晩、暗くなると、この壮大な合唱がはじまった。わたしはよく腰をおろして、近くを飛びすぎるめずらしい虫に目を奪われるまで、じっと聞きいったものだった。>
あるいは、航海の海上で。
<河口の中にはいったところで、海水と河水がじつにゆっくりと混じっていく過程をおもしろく観察した。泥を含んで濁った河水が、比重の軽さを利して、海水の上に乗っていく。この現象は艦の航跡に興味深くあらわれた。船の通過から生じた一本の青い水のわだちが、やがて小さな渦を作ってまわりの濁水と入り混じっていくのである。>