2024年12月14日(土)

WEDGE REPORT

2015年8月6日

 「動物実験の死体を焼く煙だね」

 当時、同級生とそう噂していたと話すのは、1978年に武蔵村山に引っ越してきたという40代男性。「国立予防衛生研究所村山分室」、通称「予研」の隣にある小学校の教室の窓からは、いつも煙の上がるエントツが見えた。母親からは「あの敷地内で遊んじゃダメよ」と言われていた。

 1997年に「国立感染症研究所村山庁舎(村山庁舎)」と名称を変え、現在に至る「予研」は、1961年当時、武蔵野各地に残っていた旧軍用地のひとつである「陸軍東部七八部隊」兵舎・営庭跡地の一角に建てられた。武蔵村山は昔から織物の産地だった。高度成長期に入った1960年代、和服と並んで日本の庶民の衣料の中心となったのは、ここで作られていた「村山大島」と呼ばれる紬だ。

 一面の桑畑の真ん中に作られた8万5200坪という規模を持つこの旧軍用地の周囲は、1961年になっても相変わらず桑畑や茶畑だったが、その後、村山庁舎周辺も、南側を中心に少しずつ宅地化されていく。

 決定的だったのは1966年、予研からわずか300メートル弱のところに、都営最大級の村山団地(5260戸)が竣工したこと。 それに伴う人口の急激な増加によって、小学校が二つ並べて建設された。当時、男性が通っていたのはそのうちのひとつだ。

1961年当時の現地写真。周りは畑だけ。(出典:国土地理院)

 8月3日午前、国立感染症研究所村山庁舎内にある「BSL(バイオ・セイフティ・レベル)-4」ラボを稼働することに、地元武蔵村山市の藤野勝市長が合意した。BSL-4とは、エボラ出血熱など、最高レベルの危険性をもつ病原体を扱うための安全基準を満たしたラボのこと。

 武蔵村山のBSL-4施設は1981年に建設されたにも関わらず、「危険な病原体を持ち込む」と不安視する周辺住民の反対により稼働したことがなかった。(ただし、危険度のワンランク低い病原体を取り扱う、BSL-3ラボとしては使用) 日本全国で危険な病原体を扱えるBSL-4は、事実上ここだけである。

 34年の時を経た今になって急きょ稼働のゴーサインが出たことの背景には、昨年、エボラ出血熱が日本上陸する可能性が高まったことがある。国内で患者が出た場合でも、BSL-4が使えなければ必要な検査をすることが出来ず、正確な診断や治療をすることも出来ない。危険な病原体と戦うために必要な、世界に数十しかないBSL-4施設のひとつがここにあっても、宝の持ち腐れとなってしまうからだ(注1)。


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