「もともと紺と赤の(常翔学園の)ジャージがカッコよくて、あれを着て試合に出たいと中学2年から、『常翔へ行こう』と決めていたのですが、大阪スクール選抜として一緒に練習させてもらってからは、それがもっと強くなりました。特にキャプテンの山田有樹(同志社大学)さんに憧れて、僕も常翔に入って、キャプテンになって全国大会に行きたいと思ったのです」
憧れの常翔学園進学で夢への階段登る
同期には大阪スクール選抜の優勝メンバーもいた。「もう1回、このメンバーで優勝目指して頑張ろうな」と励まし合っていた。だが、当然のことながら高校生のレベルは高く、毎日の練習が激しいポジション争いである。そのレベルは功貴が中学時代に想像していたものを遥かに超えたものだった。
そんな中から1年生数名が選手に選ばれ、功貴の心がざわつきはじめた。
「先輩たちのレベルがもの凄く高いんですよ。それなのに中学時代いっしょにやっていた仲間がメンバーに選ばれて、素直に凄いなって思う反面、自分が選ばれなかったことがショックでした。選ばれる気、満々だったですからね。でも、それが刺激になって『自分も負けられへんぞ』となりました」
常翔学園でキャプテンになって日本一になることが中学時代からの夢であり、すでに走り始めている目標なのである。その前に越えなければならない壁が熾烈なポジション争いだ。一歩出遅れた感は否めないが、甘かったなどとは微塵も思っていない。目の前の現実に功貴は激しく突き動かされた。
「このままの自分じゃ勝たれへん、もっと頑張らなあかん!」
「まずは試合に出るところからや」
それからの功貴は、練習後に家に帰ってからもランニングや身体作りのトレーニングに励み、体重を増やすために食事の量を増やした。また、本職であるフランカー(背番号6,7番)以外のポジションにもチャレンジしていった。
季節は夏となり、常翔学園の夏合宿が長野県の安曇野と菅平で行われた。功貴にとっては正念場の夏である。事故はその菅平合宿で起こった。本稿冒頭の述懐がそれである。