ーー先程のお話で経団連が文系学部と教養教育を混同していると、もう少し具体的に聞かせてもらえますか?
吉見 経団連の文科省批判は「国立大学文系学部の廃止は、経団連からの要請によるものだと世間では騒がれているがそんなことはない。私たちは教養教育をとても大切にしている」という主旨でした。つまり、経団連は文系と教養教育を一致したものと見ている。しかし、これは概念の混同で、当然ながら人文社会系の学と教養教育は同じではありません。たとえば人類学や経済学、歴史学を思い浮かべてください。それぞれの学問は専門知で、決して教養知ではありません。理系でも数学や物理学などの一部には教養的な要素が強い知もあります。つまり、専門と教養、文系と理系という区別は別の軸なのです。
また、特に混同されているのがリベラルアーツと教養教育です。リベラルアーツ教育は遅くとも中世には確立し、文法学、修辞学、論理学、代数学、幾何学、天文学、そして音楽の7つの分野から成り立っています。最初の3つは言葉に関する学ですから、どちらかというと文系、次の3つは数に関するもので理系です。最後の音楽は芸術系なので、文系3つ、理系3つ、芸術系1つがリベラルアーツを構成していたことになります。決して文系だけで成り立っていたのではありません。
ーー今で言う文理融合というイメージですね。
吉見 このリベラルアーツは16~17世紀になると哲学になっていきます。有名な哲学者のデカルトはデカルト数学を生み出し、ライプニッツは数学の微分積分を生み出しました。つまり哲学者であると同時に数学者でもあったわけです。
ではいつ頃から理系と文系の区別が生じていったのか。私は18世紀末から19世紀にかけてだと考えています。それには2つの理由があります。1つは国民国家の誕生。国民国家は、近代的なナショナリズムの伝統の起源を発明する必要がありました。この起源こそが「文化=教養」の知において追究されていくわけです。
たとえばドイツではカントやフィヒテ、ヘーゲルの哲学、ゲーテやシラーの文学などが教養的規範として確立していく。イギリスの場合はシェイクスピアです。そういったナショナルな「古典」が成立し、国民国家の規範として機能していくのが教養です。教養とは近代の産物なのですね。
その後、19世紀にヨーロッパの大発展を産業革命が支え、そうした中で文系的な知と理系的な知の区別が生じてくる。産業革命と表裏をなして新しい科学技術が発展していくと、土木工学、機械工学が確立し、さらに産業が発展し資本主義がまわりだすと、物理学や化学、電気工学も重要になってくる。つまり、理系的な知の自立と大発展、近代の物理学、化学、電磁気学から原子力工学までを含めた様々な知の凄まじい発展は、近代の産業社会の発展と表裏の関係であり、19世紀~20世紀にかけての近代産業技術社会の発展の中で理系的な知はさらにメジャーになっていく。この時、「文系とは何か、人文社会科学とはどのような価値を持つのか」という問いを人文社会科学者が真剣に考え始めることになります。