「あなたは愛する人を救えますか」
ライフセービング部員の問い掛けが植木の胸に突き刺さった。高校生には少々気恥ずかしい言葉だったが、その直後に「俺にはとても救えない」という思いと、「俺も救える人になりたい」という思いが交錯し、そんな真っすぐな言葉が言える目の前の男たちにあこがれを抱いた。
さらに、その部員が日本代表選手と聞いて植木の眼差しは熱くなった。
「水泳指導をしたり水辺の安全を守ったりする以外に、その技を競うための競技会があって、そこに出場する日本代表がいるって聞いて、一気に世界が広がったような気がしたのです。
僕はスキー部に所属していたのですが、その海浜実習中に『俺は絶対に日体大に進学してライフセービング部に入るんだ!』と決めていました。頑固というか、一度そう思ったら、一心にその道に行ってしまうような性格ですから、あの日以来、僕には他の選択肢がなくなってしまいました」
念願のライフセービング部で味わった過酷な日々
念願の日本体育大学に進学した植木は、迷わずライフセービング部の部室を訪ねた。
同期はみな他種目からの転向で約70人が入部した。
当時の日体大ライフセービング部は、部員数300名を超す学内でも最大規模を誇る運動部だった。ヘッドコーチの小峯力は、日体大在学中に水難救助の先進国オーストラリアでライフセービングを学び、日本に導入した第一人者である。ゆえに日体大は、国内ライフセービングのけん引役として圧倒的な存在感を示していた。
毎日の練習は過酷だった。その一例を示しておこう。
朝は6時30分から8時30分までプールで約3000mを泳ぐことからスタートし、大会等が近づくと60kgのマネキンを引いて泳ぐような専門的なトレーニングが加わった。その後、それぞれの授業を挟み、再び夕方から始まる練習では、ペース走と呼ばれる400m走を1分20秒で10~15周程度走り、続いて300mを走ったあとに、倒れている人を担いでさらに100m走り、その後、CPR(心肺蘇生)を行うというランキャリーCPR。