金正男氏は体制の脅威などではなかった
では、金正男氏を排除しなければならない理由が見当たらないというのは、どういうことだろうか。
金正男氏がコンピューター関係の重要な職に就き、後継候補ではないかと見られたのは1990年代のことである。この頃は「おごり」があったのか、殺害後に日韓のメディアで書かれているような「いい人」像とは全く違う、傍若無人な行動ぶりに関するエピソードがよく語られた。本当かどうか確認されてはいないが、平壌中心部の高級ホテルである高麗ホテルのロビーで拳銃をぶっ放した、などという話である。
周知の通り、金正男氏は偽造旅券で入国しようとした疑いで2001年に成田空港で摘発され、国外追放処分となった。この事件が直接の契機になったかはともかく、その後は完全に後継候補から外れたと見られている。
それから20年近く経った今、金正男氏の支持勢力など北朝鮮に残っていないし、国内情勢への影響力もない。子供の頃から面倒を見てくれていた叔父の張成沢氏も2013年に処刑された。韓国の情報機関、国家情報院は国会情報委員会に対し、事件について「金正男が体制にとっての脅威になるというような計算があったわけではなく、金正恩の偏執狂的性向が反映されたものだろう」と報告した。金正恩氏が偏執狂かどうかは評価の問題だろうが、前段は完全に同意できる。金正男氏が体制の脅威になっていると考えるのは難しい一方、金正恩体制はきちんと地盤を固めたというのが専門家の一般的評価なのだ。
釣り合わない「成果」と「ダメージ」に頭を抱える専門家たち
金正恩氏が偏執狂だからという国情院の判断は、本来なら「本当だろうか」と疑われるような話である。それでも、そんな報告が出るのは「金正男殺害によって達成されたと北朝鮮が見なせる成果と、事件によって北朝鮮が被った外交的ダメージの大きさを比較すると、とても釣り合いが取れない」(小此木政夫・慶応大名誉教授)からだろう。
金正男氏を排除することで金正恩体制が得ることになるメリットは、前述した通り少なくとも客観的な観察では見当たらない。一方、事件によって引き起こされた波紋の影響は深刻だ。長年の友邦であるマレーシアやインドネシアとの外交関係は危機にさらされ、米国や中国など関係国を中心に国際社会にも極めて強いマイナスのメッセージが発信された。このギャップを埋められないから、専門家は頭を抱えてしまっているのだ。
こういう状況では、このギャップを埋めるために様々な憶測が飛び交うことになる。北朝鮮の内情など確認不可能だし、「可能性がある」という書き方なら絶対に誤報とはならない。そのために普段から北朝鮮報道は真偽の見極めが難しいのだが、こうした状況では「書いたもん勝ち」と考えるメディアが出てくるのは避けられない。