翌日、詩作を中断した彼には微かな脱力感、失望感が漂っている。その彼のムードから、書くだけでなく、書き残すことにも多少なりとも意味を見いだそうとしていたことがうかがえる。
それでも彼が出版を躊躇したのは、作品を広く知らしめること、その結果、名声、あるいは報酬がもたらされるかもしれないこと、もしくは、それを求める気持ちが自分の中に芽生えることを彼は少なからず怖れていたのではないだろうか。
そこから離れているときこそが、もっとも幸せなのだと思っていたのか。
「いくら書いたって、人に読まれなければ何の意味もない」と言い切れる人はいい。
しかし、人に読まれること、ひいては広く読まれることを意識した途端に、書くという能力に陰りが出てくるかもしれない。
そんなことを彼は考えていたのではないだろうか。
どこかから舞い降りてくるのか、自分の中から立ち上がってくるのか。そんな言葉たちが、表現者の欲に気づいた途端、そっぽを向き始める。あるいはかつてあった、きらめきがもやもやとくすぶりだす。
寡黙ゆえに思いの深そうな主人公は、そんなことを無意識のうちに覚っていたのではないか。
映画「バベットの晩餐会」で主人公の料理人、バベットが宝くじで当てた大金をすべて使い切り、寒村の老人たちにパリの宮廷料理をふるまう。その末、「あなた、一文無しになって、これからどうするの?」と問われたバベットがこう答えたところで映画は幕を閉じる。
「ええ。アーティストは貧しいんです」
映画「パターソン」はさまざまなことを考えさせてくれるが、「バベット」と同じように、表現者、芸術家たちの心のうち、繊細さを描いた点で、普遍的な作品と言えるだろう。
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