倒産寸前の旅館がITを活用したおもてなしと働き方改革でV字回復を果たした。システムは他の宿泊施設へも提供され、観光産業の底上げを図っている。
神奈川県秦野市の鶴巻温泉。最盛期には15を超える旅館が軒を連ねた温泉街だ。しかしバブル崩壊後は客足が減少し、近年は宅地化が進む。
1918(大正7)年に創業した温泉旅館「元湯陣屋」も時代の荒波に揉(も)まれてきた。2009年には10億円の負債を抱え、倒産の危機に追い込まれている。この状況から夫とともに再生に導いたのが女将の宮﨑知子だ。就任当時は2億9000万円だった売上高を6億1700万円(旅館単体/2018年8月期)まで伸ばした。V字回復の背景には何があったのか。
観光産業の追い風といえば、真っ先に思い浮かぶのはインバウンド需要だろう。しかし宮﨑は「海外からのお客さまは10パーセント未満です」と明かす。現在、元湯陣屋を訪れる宿泊客の大半は首都圏在住だ。その目的は「滞在時間そのものを楽しみ、ゆっくり過ごしたい」というもの。そうして多くの客がリピーターとなり、リアルな口コミによって新規客を呼び込む。
「口コミでの集客を増やすためには、日々の運営努力を続けるしかありません。お客さまの希望も多様化しています。一人ひとりのお客さまに『よかったね、また来たいね』と言っていただけるかどうかにかかっているんです」
そのため、一律の接客から、個別のニーズに応じた接客へと転換を図った。食材の希望を聞いて料理メニューを決め、お茶が飲めない外国人にはコーラを提供し、朝食後もゆっくりしたい家族連れの部屋では布団をあげない。こうした個別サービスを支えたのが、自社開発した「陣屋コネクト」というシステムだ。宿泊客情報などを全従業員と共有し、社内SNSを使ってコミュニケーションを活性化させている。旅館に寄せられた要望も全員へ瞬時に共有されるため、宿泊客は「一言告げれば、旅館のどこへ行っても自分の希望を理解してもらえている」状態となる。バックヤードの業務は徹底的に効率化し、その代わりに従業員は「客室係」「下足番」といった昔ながらの単体業務にとらわれることなく、マルチタスクをこなしながら客の近くで要望を汲(く)み取っていく。
従業員の努力に報いるため、サービス業では異例の「週休3日制」も導入した。もともと客数の少なかった火曜と水曜を定休日とし、加えて月曜も半休に。固定年俸制のため、休みが増えても給料が減るわけではない。経営再建とともに昇給も進め、社員の平均年収は2009年当時と比較して120万円アップした。
現在は陣屋コネクトを全国320以上の同業他社施設へ提供している。集客に苦しむ地方の中小旅館も多いという。陣屋の成功体験は、日本の観光産業に新たな希望をもたらしているのかもしれない。
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