2024年11月22日(金)

Wedge REPORT

2019年6月26日

外務省と私の細長い関係

 本省を訪れたのは25年ぶりぐらいであろうか。昔と違い、出入りが厳重になっていて空港と同様に手荷物をX線に通す必要があった。受付にあるソファに座って迎えを待っている間、これまでの外務省との関わりが頭の中を去来する。

 20代から最近までボリビア、グアテマラ、インド、ミャンマー、レバノンなどの在外公館を時に訪れ、外務官僚と会ってきた。そうじて彼らの印象は悪くない。例外は、1994年にマングローブの専門家といっしょに会談したエクアドル大使だ。何十年とマングローブの保全にかかわっている専門家に対して、知ったかぶって自身のほうが環境問題には詳しいような口の聞き方をするのである。見苦しく、気分を害した思い出がある。その調査は外務省から直接補助金が出ていたので、調査団のわれわれはうなずくほかなかった。

 一方、ミャンマーの公館にいた外務官僚は実に人情味のある人だった。1990年代中ごろにミャンマーに何度か訪れていた私は、東京で働くカチン族の女性と知り合っていた。彼女が同じカチンの男性と結婚するという。「是非、父母を結婚式に招きたいんです。お願いします!」。日本のビザを取得するのはそう簡単ではない。私は彼女の両親の身元引受人となり、ミャンマー大使館に頼みこむと、応対してくれた領事関係者は「こんな年の方がオーバースティして働くわけないですからね」と快く、ビザを発給してくれたのである。

 外務省管轄のシンクタンク、日本国際フォーラムに勤務していたときは、首相向けの政策提言を作っていた。大学教授、マスコミ関係者、専門家などから成るタスクフォースをまとめ上げ、議論を活性化し、深化させ最終的に原稿を編集する。

 そのときの政治提言は「変貌するソ連と日本の対応」(1991年)だった。当時、日本の首相は海部俊樹、ソ連の大統領はゴルバッチョフで、彼の来日に提言をぶつけようという意図だった。もちろん当時は4島返還論である。

 意見交換のために招いたひとりは、エドワード・ルトワック(当時 米戦略国際問題研究所部長)。彼は日本のマスコミにとって使い勝手が良く、いまだ書籍も出すし、新聞にもコメントが出る。最近、北朝鮮に対しては先制攻撃をしかけよとどこかの本でけしかけていたが、私には無謀な考えにしか思えない。威勢がいいから人目を惹くのである。

(参考『北朝鮮危機を前にトランプ大統領に読ませたい珠玉の一冊』

 もうひとりはゲオルギ・クナーゼ(当時 ソ連世界経済国際関係研究所日本政治社会部長)で、日本通で日本人以上の日本語を話す方で、今はほんのまれにコメントが新聞に掲載される。

 タスクフォースの主査は、田久保忠衛杏林大学教授(現日本会議会長)で、その下で政策提言を書くことになっていたのが、秋野豊北海道大学助教授だった。けれども秋野さんの提言案は、あまりに学術的に過ぎ、残念ながら簡略であるべき外交政策の提言にはふさわしくなかった。そのため、最後になって田久保先生が代筆した。

 さすがに元新聞記者だけあってとてつもない速筆でかつ的確だった。さらに内容や表現について若輩の私が「このほうがいいのでは?」というと、「うん、そうだね」とそのまま受け入れてくれる度量の広さがあった。タカ派として知られる論客だが、私にいわせると、まことに紳士的で柔軟な思考を持った方なのだ。

 無念なのはその7年後。秋野豊さんは外務省政務官として国連の平和監視団の一員として訪れていたタジキスタンでテロの凶弾に倒れてしまった。

 経済方面の提言は、「新段階を迎えた日本の市場開放」(1992年)。当時、今の中国に対する対応を思わせるほど、アメリカによる日本への強行な市場介入があった(構造調整と潤色されている)。

 この提言だけは素晴らしい勲章がある。他すべて提言は、政治家・財界・知識人から成る政策委員たちに承認されているが、唯一廃案になったのである。財界もマスコミも知識人もただの常人なので、様々な門戸開放は許しても、外国人を積極的に日本に入れるべきだ、とする点だけは反対だった。すなわち、この提言は30年も先を見通していたのである。

 そのときのタスクフォースメンバーは、原田泰(当時 経済企画庁 現日銀審議委員)、浦田 秀次郎(当時早稲田大学社会科学部助教授 現早稲田大学大学院アジア太平洋研究科教授)、主査は竹中一雄(竹中一雄 当時 国民経済研究会顧問)、主に提言を書くのが中北徹(当時、東洋大学経済学部助教授 現教授)で、とりわけ後者2名に私はあれこれお世話になった。  


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