2024年11月22日(金)

日本人秘書が明かす李登輝元総統の知られざる素顔

2019年9月21日

深刻な対立を融和へと導いた二人の指導者

 南アフリカでマンデラが釈放されたのは1990年だった。当時のデクラーク大統領は白人であったが、もはや南アフリカが国際社会の圧力に抗いアパルトヘイト政策を続けていく余地も体力もなかったといえる(アパルトヘイト政策の正式撤廃は翌91年)。

 そして1994年、南アフリカで行われた史上初の民主的選挙で、マンデラは黒人初の大統領に選ばれる。就任式には李登輝も台湾から出席している。「民主主義と自由という同じ価値観を標榜する国」どうし、最大限の敬意であった。

 マンデラは大統領就任後、黒人と白人がともに融和する「Rainbow Nation」の構築に腐心した成果は、翌95年の第3回ラグビーワールドカップで結実する。それまで白人のスポーツとされてきたラグビーに全国民が熱狂し、黒人選手のチェスター・ウィリアムズの活躍に、誰もが喝采を送ったのだ。

 1996年、李登輝は台湾初の総統直接選挙を実施する。それまでは国民大会代表による間接選挙だったが、李登輝は民主化の完全なる定着と実現のためには「さらなる一歩が必要」と考え、国民党内の反対勢力を押し切っての実現であった。

 党内には「政権を手放す可能性のある制度をむざむざ導入しなくとも」という反対の声がかまびすしかったそうだが、李登輝は「日本教育で徹底的に叩き込まれた」という「公のために奉仕する」精神をフルに発揮して押し切った。

 結果、選挙で国家の指導者を選ぶという完全な民主主義の実現を世界にアピールすることが出来たわけで、さらに4年後には中華圏においては歴史的にも初めての「平和的な政権交代」の実現へとつながっていくのである。

 黒人と白人が対立してきた南アフリカ同様、台湾もまたエスニックグループによる対立が深刻な「移民国家」であった。

 もともとこの台湾という島の主だったのは、日本時代に「高砂族」と呼ばれた原住民だったし、数百年前に中国大陸から渡ってきた本省人と呼ばれる人々がいる。また、少数グループの客家と呼ばれる人々や、戦後国民党政権とともに台湾へやって来た外省人がいる。

 戦後の国民党による占領統治があまりにも腐敗していたため、外省人と本省人との軋轢は非常に深刻だった。それまでの日本時代、まがりなりにも「法治」の概念を経験していた本省人にとっては、「人治」の国民党政権とはまさに「文明の衝突」であったし、その結果不幸にも起きたのが228事件と、それに続く白色テロの時代であった。

 李登輝は戦後数十年にわたって続いてきたこの「族群対立」や「省籍矛盾」と呼ばれるエスニックグループ同士の対立をいかにして融和するかに心を砕いてきた。

 そのために李登輝が総統在任中に掲げたのが「新台湾人」という概念だ。その定義は、李登輝に言わせれば「台湾にいつ来たか、という時間は関係ない。台湾の米を食べ、台湾の水を飲み、台湾こそが自分の故郷だと思う人間であれば、それはみな台湾人だ」という内容で、台湾にやって来た時代が異なることで対立する社会への融和を呼びかけたのである。マンデラが実現した「Rainbow Nation」同様、李登輝もまた「新台湾人」の概念を提唱することで台湾社会の融和を進めたのである。


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