日本人秘書が明かす李登輝元総統の知られざる素顔

2019年9月21日

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早川友久 (はやかわ・ともひさ)

李登輝 元台湾総統 秘書

1977年栃木県足利市生まれで現在、台湾台北市在住。早稲田大学人間科学部卒業。大学卒業後は、金美齢事務所の秘書として活動。その後、台湾大学法律系(法学部)へ留学。台湾大学在学中に3度の李登輝訪日団スタッフを務めるなどして、メディア対応や撮影スタッフとして、李登輝チームの一員として活動。2012年より李登輝より指名を受け、李登輝総統事務所の秘書として働く。

南アフリカのネルソン・マンデラ元大統領と、台湾の李登輝元総統。国内の深刻な対立を融和へと導き、民主化を果たした二人の指導者の共通点とは――? 李登輝さんの日本人秘書である早川友久さんが解き明かします。

1993年7月、当時南アフリカ最大の野党だったアフリカ民族会議の主席として台湾を訪問したマンデラをもてなす李登輝【写真提供:財団法人李登輝基金会】 写真を拡大

 4年に一度のラグビーワールドカップ開幕が目前に迫った。日本で、そしてアジアでも初めての開催である。そんな矢先、日本ではほとんど報じられなかったがある人物の訃報が報じられた。1995年、第3回ワールドカップで南アフリカ代表として出場したチェスター・ウィリアムズ氏が49歳で急逝した、というものだった。

 彼の名を特に記憶していたのには理由がある。95年当時、高校生だった私もまた楕円球を追いかける毎日を送っていた。テレビ中継とはいえ、世界最高レベルの試合を目にできる機会はまたとない。そのため、時差の関係でほぼ全ての試合が真夜中の放送であっても、文字通りかじりつくかのごとく、全中継をこの目で見ていたのだ。

 1995年、第3回となるワールドカップは初めて尽くしだった。それまでアパルトヘイト、いわゆる人種隔離政策を続けてきたために、長年にわたり国際大会の開催はおろか出場さえ許されなかった南アフリカ代表チームが初出場するとともに、開催国となった大会だったからである。

 世界は南アフリカ代表チーム「スプリングボクス」に注目した。1948年のアパルトヘイト施行以来、数十年にわたって国家代表チーム同士の試合が行われていないため、その実力はベールに包まれていたが、ニュージーランド代表の「オールブラックス」以上との噂であった。

 それまで南アフリカにおいてラグビーは「白人のスポーツ」だった。黒人層にはボールひとつあれば出来るサッカーのほうがむしろ好まれていたという。実際、このときの代表チームの選手もまたほとんどが白人であったが、唯一の黒人選手が「ブラック・ダイヤモンド」と呼ばれ称賛されたウイングのチェスター・ウィリアムズだったのである。

 初出場にして地元開催となった南アフリカ代表はチェスター・ウィリアムズの活躍もあって、下馬評通り快進撃を続け、決勝戦では世界最強と謳われたNZ代表オールブラックスと相まみえた。ヨハネスブルグで行われた決勝は、ワールドカップ史上初の延長戦にもつれこみ、文字通りの死闘を南アフリカが制して優勝を勝ち取ったのである。

 セレモニーで、優勝カップを手渡したのは、開催国南アフリカのネルソン・マンデラ大統領であった。『インビクタス 負けざる者たち』というタイトルで映画化もされたから、この前後のストーリーをご存知の方も多いだろう。反アパルトヘイト活動家として27年ものあいだ投獄されていたが、1990年に釈放され、のちに黒人として初めての大統領となった人物である。

 白人と黒人の壁を取り払い、様々な人種が共生する「Rainbow Nation」を実現させたマンデラ氏の感慨はいかばかりだっただろうか。白人が主体の南アフリカ代表チームのなかにあって、唯一の黒人選手として活躍したチェスター・ウィリアムズこそ、この融和を体現する人物であったのだ。

 ところで、これまで台湾や「台湾民主化の父」李登輝をテーマに原稿を書いてきた私が、なぜ突然南アフリカやマンデラ氏を取り上げたのかは理由がある。

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