互いに尊敬しあっていた李登輝とマンデラ
先月、日本から李登輝を表敬訪問するお客さんがあった。地方議員や企業の経営者などで構成された訪問団だったが、あいにくその前日に李登輝は体調を崩してしまい、表敬訪問はキャンセルとなってしまった。
ただ、突然のキャンセルでは皆さんのスケジュールに穴を開けてしまうことになる。そこで、力不足は承知で「秘書の私でよろしければ、出来るかぎりお話しさせていただく」ということで私が対応することになったのだ。
会の終了後、参加者の若い女性と話す機会があったのだが、そこで非常に大きな示唆を受けた。日本でコンサルタントや企業文化の再啓発を促す仕事をされている世羅侑未(せら・ゆみ)さんは、マンデラ氏の南アフリカに強い関心を持ち、毎年スタディツアーを主宰して南アフリカを訪問しているという。
彼女は言う。
「マンデラ氏のリーダーシップや南アフリカを民主化、平等化に導いた手腕は、台湾を民主化させた李登輝元総統と非常に似通ってるのではないか。だからぜひ李登輝氏の話を聞いてみたかった」
私もおぼろげにマンデラの功績の一端だけは知っていたが、彼の生涯を調べてみると、驚くほどに李登輝と共通する境遇を経ていることがわかる。クリスチャンだったことや、マンデラも李登輝も180センチをゆうに超える高身長だったという共通点もあるが、なによりも、この二人は、一時期同じく自由や民主主義を標榜する国家の指導者として国家を牽引し、互いに尊敬しあうほどの仲だったのだ。
マンデラは1918年に首長の息子として、李登輝は1923年に地元淡水の名士の次男として生まれた。同じく高等教育を受けた両者だが、日本や台湾では「戦後」となる1950年代以降、二人の足跡はやや異なる道を歩むことになる。
戦後、京都帝大での学業を切り上げて台湾へ戻った李登輝は、台北帝国大学から名前を変えた台湾大学へ編入。農業経済の学者としての道を歩み始めた。一方、マンデラは1948年以降、急速に構築されたアパルトヘイト体制に抗い、弁護士として活躍する一方、反体制運動に深く身を投じて黒人の権利向上を目指して政府を相手に戦っていた。その結果、マンデラは逮捕され長く投獄されることとなる。
李登輝を取り巻く環境はどうだっただろう。戦後台湾では「白色テロ」と呼ばれる粛清の嵐が吹き荒れた。占領統治の邪魔になる、日本時代に高等教育を受けた知識層が狙い撃ちにされた。事実、京都帝国大学で学んだ李登輝の経歴は、いつ国民党政権にしょっぴかれてもおかしくなかった。「法治」でなく「人治」がまかり通った時代、疑いをかけられることイコール命を落とすことと同義だったといっても過言ではなかった。
自然、李登輝を含め多くの台湾人が政治とは距離を置く生活を余儀なくされた。李登輝もまた、政治とは離れた学問の世界で農民の生活向上のための研究を続ける毎日を送っていた。その間、二度にわたる米国留学も果たす。米国で博士号を取得した洋行帰りの学者を待っていたのは台湾大学教授の椅子だった。
一方、反体制運動に携わったマンデラは、獄中での日々を送る。その年月たるや27年。気の遠くなるような月日である。
台湾でも、政治犯として捕らえられた人々が台東の沖合に浮かぶ緑島の収容所に閉じ込められていた。でっちあげの罪状、形ばかりの裁判で、10年あるいは20年の刑期を言い渡された台湾の政治犯たちもまたこの島で長い時間を過ごすことになる。
司馬遼太郎の『街道をゆく 台湾紀行』に博覧強記の「老台北」として登場する蔡焜燦先生は、私と顔を合わせるたびに「いつか外務大臣になって日台の国交を樹立しろ」と言いながら可愛がってくれた方だが、蔡先生の弟君である蔡焜霖さんもまた高校時代に「読書会に参加した」という事実無根の罪状で緑島に10年幽閉されていた。
蔡さんは10年という歳月を「私は緑島留学の博士課程ですから」と嘯くが、青春時代の年月を奪われるような人生を私たちはどのようにトレースしていくべきなのだろうか。
獄中に繋がれたマンデラはやがて、反アパルトヘイト運動の象徴的存在としてみなされていく。同時に、国際社会からもアパルトヘイト政策に対する批判の声や、マンデラの釈放を求める声が高まり、当時の南アフリカ政権もその圧力に抗えなくなりつつあった。
蒋経国総統の時代、米レーガン政権が台湾の人権状況に重大な関心を寄せていると声明を発表し、国民党はそれまでのような容赦ない無差別な粛清を容易には続けられなくなっていった状況と類似している。
話は前後するが、まだ行政院長(首相に相当)だった蒋経国(のちに総統)は、農村の復興や石油化学工業の推進、職業訓練などを任せられる人間を探していた。その目にとまったのが新進気鋭の学者として名を知られるようになっていた台湾大学教授の李登輝だった。
ニュージーランドへ講演旅行中、李登輝は台湾から緊急の電報を受け取る。「今般、政務委員(無任所大臣)に任命されたから至急帰国するように」との命である。こうして学問から政治の世界へと入った李登輝は蒋経国からその手腕を認められ、台北市長、台湾省主席、副総統へと順当に政治の世界における階段を上がり続けていくのである。