2024年4月26日(金)

足立倫行のプレミアムエッセイ

2020年9月5日

マジェスティック・ホテル・サイゴン(KHellon/Gettyimages)

 今年は、作家・開高健の生誕90年。開高は1989年12月9日に58歳で逝去したから、生きていれば今年90歳になるのだ。

 そのことを『週刊朝日』(8月26日号)の“開高健生誕90年”特集で知った。

 作家の角幡唯介氏や角田光代氏や、寿屋(現、サントリー)PR誌『洋酒天国』元編集長の小玉武氏といった、開高と個人的に親しかった人などが寄稿していた。

 『週刊朝日』は、作家・開高が書斎派から行動派へと飛躍する舞台となった雑誌。

 連載ルポ『ずばり東京』(1963~64年)ではオリンピック前の激変する東京を活写、南ベトナム軍の従軍ルポ(1964~65年、後に『ベトナム戦記』)では解放軍ゲリラに包囲されながら危機一髪で脱出した。30代半ばで「行動する作家」の先駆者となったのだ。

 その意味では、『週刊朝日』が開高健の生誕90年記念特集を掲載するのは相応しい。

 実は『週刊朝日』では、エッセイ「コンセント抜いたか」を連載している嵐山光三郎氏も、1年ほど前に開高健(夫婦)について2回取り上げており、こちらはやや辛口だ(『週刊朝日』2019年9月13日、20日号)。

 初回は、「史上最強のフーフゲンカ」。7歳上の妻である詩人・牧羊子が有名になった夫の「家業」を徹底的に管理しようとし、開高は逃亡を企てる。「言葉の魔術師」の夫と「物理系詩人」の妻との夫婦喧嘩は「速射砲の連続」で「凄絶をきわめ」、「横に編集者がいてもおかまいなし」だったという。

 嵐山氏は、『洋酒天国』で開高の後輩だった作家の山口瞳氏と家が近く、「くにたち山口組」の一員だった。2回目のエッセイではその山口の見た開高夫婦を紹介。山口は長年開高夫婦の不仲を知らず、2人は理想的な芸術家夫婦と考えていた。

 けれど、不仲と知ると幾つも納得が行くことがあった。

 「戦場に行きたがる」のも「カナダへ行ってでっかい魚を釣りたがる」のも、「ヘミングウェイを気取って」「憧れている」と思い込んでいたのだが、そうではなかった、と。

 だから「外国へ行くと肩凝りが治る」「鬱がすうっと無くなりよる」のも、よくわかった。

 もっとも、家を離れる理由がどうであれ、開高健という作家がそれまでの作家と比べケタ違いの行動派だった事実は揺るがない。

 地球上どこへでも、行きたい土地に行って見たいものを見て、出会った事象すべてを貪欲に、巧妙かつ精緻に文章化し、しかも知見・体験をみごとな警句や名言にまとめ上げ、日頃は文学に触れることのない多くの日本人にも強烈なインパクトを与えた。

 特に釣りの分野において、である。

 1977年の『月刊プレイボーイ』連載のアマゾン編から始まった世界釣行紀は、『オーパ、オーパ!!』シリーズとして、アラスカ、カナダ、モンゴルなどへ及び、10年間に5冊の豪華写真本(集英社刊)に結実した。

 そこで描かれるのは、ピラルクやドラド、ターポン、オヒョウなど日本人が見たこともない大型魚と対峙する「濃密な至福の時間」であり、それに引き続く「命懸けの戦い」。そして終了後、同行の料理人と共に飽くなき美食の展開……。

 暇人の地味な趣味、といった釣りのイメージは開高の登場で根底から覆った。

 〈男が人生に熱中できるのは、二つだけー遊びと危機である〉(『風に訊け2』)

 私は生前の開高健に会ったことはない。釣りもしないが、なぜか開高とつながりがある。

 1991年7月28日、新潟県湯之谷村(現、魚沼市)の銀山平に、開高健を記念する初めての石碑が建立された。関係者約200人が参列したが、その中に私もいた。

 当時私とコンビを組んでいた写真家の秋月岩魚さんが、若い頃に開高の釣りのガイド役や運転手役を務めた縁で、秋月さんに誘われ私も奥只見の銀山平に通うようになり、開高が名誉会長を務める自然保護団体〈奥只見の魚を育てる会〉の会員になっていたからだ。

 式が始まると、最初に夫人・牧羊子と娘でエッセイストの道子、両氏による除幕があった。 

  白布の下から高さ3・8メートル、重量約10トン、直立した灰褐色の安山岩の石碑が現れた。碑には開高の文字で、「河は眠らない 開高健」と深く刻まれている。

 場所は銀山湖(奥只見湖)へ注ぐ北ノ又川の河口、石抱橋のたもと。禁漁区の入口である。

 開高は、銀山湖の大イワナの噂を聞きつけ、1970年5月に銀山平を訪れた。

 小説『夏の闇』を構想しながら3カ月滞在し、気に入って以後通うようになった。

 この間、開高の地元に与えた影響は大きい。ルアー(擬餌鉤)による釣り、C&R(キャッチ・アンド・リリース)。つまり、欧米流の遊びのための釣りの紹介である。そんな釣りを楽しむには、資源を保護する禁漁期間や禁漁区の設定が欠かせない。そして、それが実現すれば、その土地の環境全体が保全される……。

 1975年に地元と都会の釣り人らにより〈奥只見の魚を育てる会〉が発足した。やがて開高が多忙で足が遠のいた頃、禁漁期や禁漁区が実現し、銀山湖は「ルアー・フィッシングの聖地」になった。


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