「マース(MaaS)、なんだそれ?」
社長からの辞令を受けて頭が真っ白になったと、東急の森田創さん(46)は、2年前の人事異動を振り返る。MaaSとは、「Mobility as a service(モビリティ・アズ・ア・サービス)」の略で、鉄道、バス、タクシーなどの異なる交通手段において、ITを使ってシームレスにつなぐ新しいサービス。森田さんはMaaSを新規事業として立ち上げる責任者に指名された。
2018年3月のことだ。ここから静岡県の伊豆半島において、19年4~6月、19年12~20年3月まで、2つのフェーズにわけて実証実験を行った。この取り組みを〝戦記〟としてまとめたのが『MaaS戦記』(講談社)で、森田さんが、人事異動の辞令を受けたところから物語がスタートする。
東急という鉄道会社に在籍しながら、交通系の仕事をしたことがなかったという森田さん。「自他共に、ITオンチである何で俺が?」という不満を持ったまま、新しい部下たちと対面した。「不思議ちゃん、超無口な青年、マグロのように泳ぎ続ける中年男」の3人。
不満を部下たちに押し付けるように「僕は、もともとこの部署に来るはずではありませんでした。そしてMaaSやITのことも何もわかりません。ですから活躍できる自信はありません。広報時代にはずいぶん会社のために、無理もしてきました。しばらくは気持ちと体を休めることを第一目標にしたいと思います」と、挨拶してしまうのだ。
こんな挨拶を聞かされた部下はたまったものではないが、いくらノンフィクション本だといっても、ここまで赤裸々に書いてしまうのかと、読みながらハラハラしてしまった。森田さんにそれを尋ねてみると、
「正直に書こうと思ったんです。もちろん、3人には許可を得ていますよ(笑)。最初はそんな最悪な状況からスタートしたのですが、仕事をするなかで信頼関係を構築することができました。だからこそ、いま書くことができるんです」
本書を執筆することになったきっかけも変わっている。これもサラリーマンとしては異色だが、森田さんは過去に2冊の本を上梓している。久しぶりに担当編集者と打ち合わせをした際、かつての球児であり、東大ではアメフト部のQBとしてプレーした森田さんは、「スポーツネタをやりたい」と、持ち掛けると「森田さんのネタは、マニアックすぎてダメ」と却下されたという。
逆に「いまどんな仕事しているのか?」と尋ねられたので、MaaS事業の愚痴を思わず話してしまったという。すると編集者は、即座に「それだ!」と乗り気になり、さっそく森田さんは会社の上司と人事部に打診したという。
「MaaSの話は、進行形でしたし、そのまま書けば、当たり障りもあります。内心どこか、反対してくれないかなと思って話したら、『書いてみればいいじゃないか!』と言われたんです」
これにOKを出す東急側も、懐が深い。「観光型MaaSは日本国内で最初に取り組む事例になる。失敗も含めて参考にしてもらえるなら役に立つ」という判断だった。
会社から許可が出たものの、「19年の12月まで全く書くことができませんでした」と、森田さん。19年の12月というのは、伊豆でのMaaS実証実験のフェーズ2がスタートしたときだ。詳しくは本書に譲るが、フェーズ1では、「またか……」と思うほど、何度も不具合が生じる。
フェーズ1開始の数日前まで、鉄道やバスのフリーパスや、観光施設のデジタルチケットを購入するアプリ「Izuko(イズコ)」が完成しておらず、バグだらけ。アプリはドイツ企業と共同開発しているが、お互いの文化の壁に阻まれ、細かい意思疎通が上手くいかない……、読んでいて、背筋が寒くなってくるほどだ。
このようなアクシデントをなんとか乗り越えながら、ようやくサービスとしての見通しがついたのがフェーズ2だった。編集者からも発破をかけられ、やっと森田さんの筆も動きはじめた。完成したのは今年の5月末だった。
そもそも森田さんが、物書きとして二足の草鞋を履くきっかけになったのは、劇場の仕事にのめり込んだあと、広報に異動した時のことだった。
「仕事以外のことをしたいと思っていました。何をしようかな? と思っていたら、洲崎球場という幻のプロ野球場があることを知りました。巨人が初優勝し、巨人阪神戦が伝統の一戦になった、プロ野球の伝説が始まった球場なのに、球場の正確な場所、広さ、解体時期などあらゆることが謎のまま……。その球場のことを1年間かけて徹底的に調べているうちに、広報の仕事を通して記者の知り合いも増え、面白いといって記事にしてくれたんです。そしたら、講談社の編集者さんの目に留まって、本にしましょう!となったんです」
しかし、仕事以外のことがしたくなったと言うが、『MaaS戦記』の冒頭で、広報時代について「24時間365日、何か起こればいつでも駆けつけ、問題の対処に当たってきた」と書いている。やはり、仕事もバリバリやっていたのである。一方で、作家にも全力投球。「ワーカホリック」「ブルドーザー」との異名をとっていることを『戦記』のなかでも否定しているが、やはりそう呼びたくなるタフさを持っている。