僕の友人である山田耕平君一家がアフリカに渡ってすでに6年が経とうとしている。
アフリカにおける日本人の活躍はいろんな人が努力をしているが成功するのはなかなか難しいようだ。私の会社(AMJ)ではアフリカでレアメタルの開発をしてきた。その中で1番力を入れたのが中央アフリカにあるルワンダである。当社AMJの社員だった山田君がアフリカで事業を起こすためにルワンダに渡ったのだが、そこで当社AMJのレアメタル扱いの代理店をしながら山田一家のルワンダでの生活が始まった。
そんな山田一家のルワンダ戦記を紹介させて頂きたい。なお過去のルワンダ関連記事は以下を見て戴きたい。
コロナ時代がアフリカと日本をつなぐ
ルワンダという国はアフリカの中では小さな国ではあるが経済を中心に「アフリカの奇跡」と呼ばれている。優秀なリーダーであるカガメ大統領がルワンダの経済を強化する政策が功を奏したのだ。つまり経済政策の方向性さえ間違わなければ、アフリカの経済発展は可能だということを証明したのがルワンダとであり、それが「アフリカの奇跡」とまで呼ばれるようになったのだ。
日本政府はアフリカ援助のためにJICAを始めとする諸団体を通じていろいろな支援をしている。しかし直接経済的な支援をしてもなかなか本当の支援にはなりにくい。
なぜならば直接お金や物で援助をしてもアフリカ諸国が本当に自分の力で自立しない限り真の発展は長続きしないと言うのがこれまでの援助の実態であるからだ。
TICAD7(アフリカ開発会議)が2019年8月28日に横浜で開催された。日本側からは官民一体となった投資の応援を約束した。
ではルワンダではどのようなビジネスが成功したのだろうか?
日本政府は社会インフラ(水道プロジェクト)やICT教育プログラム(情報通信技術)で対応しABEイニシアティブによる目玉はルワンダの留学生を26人以上も日本の大学や研究機関に受け入れたのだ。その結果交通インフラの不足しているルワンダでは情報通信技術が強化されてドローンで医薬品を地方に運ぶなどのユニークなビジネスも実現した。
文化の違いの中で双方が理解しあうことは本当に難しい
大体においてアフリカといっても54カ国もあるので文化も違えば教育レベルや経済環境も違うわけで同一に扱うわけにはいかないのである。今回テーマアップしたルワンダは全アフリカ諸国54カ国の中でビジネスのしやすさは2020年版 Doing Business Rankによると堂々の第2位だった(ちなみに1位はモーリシャス、3位はモロッコ、4位はケニア)。
いろいろな問題があるにしろルワンダはアフリカの中では投資条件が揃った優等生国家である。
さて、話を進める前に今回の主人公の山田美緒さんの経歴を話しておきたい。山田美緒さんはアフリカ大陸のみならず世界では有名なサイクリストである。
大阪外大スワヒリ語科在学中に日本1周6000Km、アフリカ大陸を日本人女性初単独縦断旅行5000km、その後、シルクロード、台湾1周、キューバ、ベトナム、バリ島、中東、アメリカなど世界20カ国以上を自転車で旅したという「探検家」としての側面を持っている。
彼女の過去の歩みを紹介したい。大阪生まれの美緒さんは普通の会社員の家庭に生まれたが、狭い場所に束縛されるのが嫌いで、子供の頃から海外進出を夢見ていたようだ。
当然ながらご両親の反対に会い普通なら諦めるところを美緒さんは地方自治体の協力を得て着実に海外進出計画を実現に移していった。
日本のサイクリストの世界で美緒さんを知らない人はモグリだと言われるが、初めて彼女の海外進出の自転車ツアーを選んだ場所は何とアフリカ大陸縦断の旅だった。
美緒さんは体力も半端ないが、行動力が凄い。女性である条件は不利に働くから男性以上のリスク管理が必要な訳だ。さすがの美緒さんもアフリカでの危険性は重々承知で丸刈りにして胸が目立たないように晒しを巻いてアフリカ縦断の自転車ツアーに臨んだという。彼女の信条は本来「自転車は世界を繋ぐ」をモットーとしていたが、ルワンダに来てからはレストランマネージャーとして「食は世界を繋ぐ」と発想を切り替えて新しい本格日本料理店の起業に挑戦したのだ。
山田さん一家の役割分担はご主人の山田耕平君は主にレアメタル代理店と開発事業で奥さんの山田美緒さんは主に日本食レストラン経営である。
この6年間で山田一家は曲がりなりにもKISEKIレストランを維持してきた。しかしルワンダの国内景気は下降する一方でカガメ大統領の経済政策も鉱物資源が不況期に入ったためにレアメタル取引も頭打ちになってしまった。
つまり景気回復の踊り場の期間が長くルワンダに限ったことではないがアフリカの経済発展のスピードが落ちてしまったのだ。
海外からの投資事業や建設事業なども事業の見直しに入ったために金融面でも産業面でも一時期の投資ブームは消えていったように見られた。