足立倫行のプレミアムエッセイ

2020年10月10日

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(photonewman/gettyimages)

 長引くコロナ禍のせいで心身の不調を訴える人が増えた。解雇や雇い止めにならないまでも、先の見えない自粛生活そのものが家族や夫婦、勤め先や友人との関係に亀裂をもたらし、それが自分に跳ね返ってくるのだ。 

 この長く辛いトンネルの中で、私たちはどのように精神状態を保てばいいのか?

 私が頼るのは、やはり書物である。

 新型コロナがパンデミック(世界的大流行)ということで、アルベール・カミュの小説『ペスト』がよく読まれているが、私は同じ不条理文学ならば、フランツ・カフカの諸作品はもっと相応しいのではないか、と思う。

 例えば、カフカの代表作『変身』である。

 〈ある朝、グレゴール・ザムザがなにか気がかりな夢から目をさますと、自分が寝床の中で一匹の巨大な虫に変わっているのを発見した〉(高橋義孝訳『変身』)

 朝、目覚めると世界が一変。悪夢の続きなのか、自分が昨日までの自分ではなく、一匹の虫に変身してしまったと感じた……。

 今回の悪夢のような数ヵ月のどこかで、この部分を「それは私!」と受け取った人は、大変多いのではと推察する。

 カミュの『ペスト』が集団を襲った不条理ならば、カフカの『変身』は、個人を襲った不条理と言えるのである。

 カフカは作品ばかりでなく、生き方自体が徹底的にネガティブだった。

 であれば、人生が辛い時にポジティブな言葉が反発しか呼ばない以上、カフカの後ろ向きの言葉に、しばし身を浸してみることも必要ではないだろうか?

 9年前、『絶望名人カフカの人生論』(飛鳥新社)でそんな大胆な提案をしたのが、翻訳者で文学紹介者の頭木弘樹さんだった。

 〈将来にむかって歩くことは、僕にはできません。将来にむかってつまずくこと、これはできます。一番うまくできるのは、倒れたままでいることです〉(フェリーツェへの手紙)〉

 〈僕は人生に必要な能力をなに一つ備えておらず、ただ人間的な弱味しか持っていない〉(八つ折りノート)

 カフカの真骨頂は日記や手紙にこそあると言える。

 しかし、恋人に「僕は倒れたままが一番上手」と手紙で知らせてどうなるのか? 余りの自己評価の低さに、通常の落ち込んでいる人なら「彼よりマシ」「笑ってしまう」と頭木さんは言う。

 私は以前、頭木さんに会ったことがある。

 頭木さんは難病(安倍前首相と同じ潰瘍性大腸炎)を大学生だった20歳の時に発症し、13年に及ぶ長い闘病生活を送った。

 そんな日々の中で、一番の支えになったのがカフカの日記や手紙だった。一緒にどん底まで付き合ってくれる「友達」だったのだ。

 カフカの「絶望の名言」に同意してくれる入院仲間は多かった。だが、「単行本が一般に受け入れられるとは思わなかった」由。

 頭木さんの本は評判を呼び、執筆依頼も次々舞い込んだ。やがてNHKの『ラジオ深夜便』でコーナーを持つほどに。

 現代社会には「生きづらさ」に共鳴する人がそれほど多い、ということだろう。

 2014年、頭木さんは続いて『希望名人ゲーテと絶望名人カフカの対話』(飛鳥新社)を刊行した。ゲーテが光なら、カフカは影。生き方が両極端の2人の作家の言葉を、対話形式で編訳したものだ。

 前著に寄せられたメールから、世間では絶望一辺倒の人よりも絶望と希望の間でもがいている人の方が多いと知り、絶望と希望の「間の本」が必要、と感じたからだ。

 「明るい前向きの気持ちのときには明るい言葉を読み、絶望して後ろ向きな気持ちのときには絶望の言葉を読み、希望と絶望の間で揺れ動いているときには両方の言葉を読む」(あとがき)、そのための一冊である。

 ゲーテ〈希望は、私たちが生きるのを助けてくれます〉(シュタイン夫人への手紙)

 カフカ〈朝の希望は、午後には埋葬されている〉(日記)

 ゲーテは25歳で欧州一の著名作家となり、その後ワイマール公国の大臣。多芸多才で恋多く、一生の間金銭面の苦労がなかった。

 対してカフカは、生存中はまったく無名。結婚を望みながら恋は実らず生涯独身。「パンのため」嫌々サラリーマン人生を送った。

 ゲーテ〈私が生きた地上の日々の痕跡は、未来永劫、消え去ることはない〉(『ファウスト』)

 カフカ〈目立たない生涯、目立つ失敗〉(日記)

 対話集はその後、極端な2人の距離が次第に接近し、境界が曖昧化して行く。

 「文豪」ゲーテは確かに成功者だが、愛する妹、親友、妻を次々に亡くし、82歳で死ぬ前年に独り息子まで失う。孤独の只中での栄光だった。一方のカフカは、無名のまま40歳で死去するが、恋人は約500通もの彼の手紙を保存し続け、親友ブロートは戦時下で命を賭けて遺稿を守り、共に後年出版。「20世紀最高の作家カフカ」誕生に貢献した。

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