〝阿鼻叫喚〟の事件現場
地下鉄サリン治療の裏側
95年3月20日午前8時ごろ、通勤客らで混雑する地下鉄丸ノ内線や日比谷線の車内で、猛毒の神経ガス「サリン」が撒かれ、緊急停車した霞ヶ関や日比谷、築地などの各駅では、乗客や対応にあたった駅員らが次々と倒れ、救急搬送される事態となった。オウム真理教が企てた地下鉄サリン事件である。
発生から4時間後、都知事は「毒劇物の除去処理と被害者への特殊治療」を目的に、自衛隊に出動を要請した。陸上自衛隊化学部隊の隊員(当時30歳)は、その時の状況を、筆者の取材に対し、次のように話している。
《重さ6キロを超す分厚いゴム製の化学防護衣を身に着け、霞ヶ関駅のホームに降り立った途端、この事態を収拾できるのは自分たちしかいないと思った。正直、怖かった。それでも勇気を振り絞った。ホームにはサリンの入った紙袋が投げ出され、乗客らの血や吐しゃ物、眼鏡などが散乱していた。検知器は「ピピピ……」という連続音で神経ガスの残留反応を示し、紙袋に残る液体に浸した検知紙の色は、サリンを示す黄色に変わった》
現在のさいたま市から駆け付けた陸自第101化学防護隊(現・中央特殊武器防護隊)が中心となり、地下鉄の車内や駅構内に付着したサリンを中和し、無毒化させるため塩素系薬剤の水溶液を噴霧し続けた。ここまでは周知の事実だろう。だが、次々と苦痛を訴え、搬送される被害者治療の現場で、自衛隊が大きな貢献を果たしていたことはあまり知られていない。
激しく嘔吐し、倒れ込む人々。痙攣し、呼吸困難に陥る人々。瞳孔が収縮し、「暗い、暗い」と訴える人々─。地下鉄が緊急停止した築地駅からほど近い聖路加国際病院には、多くの被害者が運び込まれて大混乱となった。次第に前年の94年6月に起きた松本サリン事件の被害者の症状に似ていることが明らかとなってきた。だが、同病院などには、農薬を誤飲したような場合に備えた解毒剤しかなかった。
この危機を救ったのは、自衛隊中央病院と当時の陸自衛生補給処(いずれも世田谷区)に備蓄してあったサリンなどの化学兵器に有効なアトロピンとPAM(プラリドキシムヨウ化メチル)と呼ばれる解毒剤だった。すぐさま全量放出が決定され、同病院などでは直ちに、症状の重い被害者への投与が開始された。
地下鉄サリン事件では、発生から25年が経過した今年3月、長い闘病の末に一人の女性が息を引き取り、犠牲者は14人となった。負傷した約6000人の被害者の中には、今なお後遺症に苦しんでいる人も多い。それでもあの時、自衛隊が有効な解毒剤を大量に持っていなければ、さらに多くの命が失われたことだけは確実だろう。
なぜ自衛隊はサリンに立ち向かい、命を救うことができたのか──。陸自の化学部隊を巡っては、60年~80年代にかけ、当時の社会党などから「自衛隊は生物や化学兵器(BC兵器)の研究開発を行い、実験や訓練をしているのではないか」などと何度も国会で追及されてきた。その度に政府は「そうした非人道的兵器は持たない」(80年10月の衆院決算委員会)と述べてきた。それでも万一、国内で第三国によってBC兵器が使用された場合に備え、自衛隊は国民を防護するための研究を続けてきた。