2024年4月17日(水)

Wedge REPORT

2021年5月12日

 「金科玉条」という言葉がある。人や組織が絶対的な拠り所として守る法や規則、信条などを意味するが、転じて、融通が利かない例えとしても用いられている。まさに、安全保障分野の研究を忌避し、タブー視する日本学術会議にとって、「戦争を目的とする科学の研究は、今後絶対に従わない」とした1950年の声明は、金科玉条そのものだろう。

「戦争を目的とする科学の研究は、今後絶対に従わない」とした1950年の声明は、日本学術会議の金科玉条そのもの (JIJI PRESS PHOTO)

 だがその後、この声明に関連して、同会議では何度も喧々諤々の議論が繰り返されていたことはあまり知られていない。加えて、第二次世界大戦の敗戦国として国連加入も認められていなかった55年には、一部の戦勝国が反対する中で日本の南極観測に道を拓き、その後、南極への輸送を海上自衛隊に委ねる判断を下したのも同会議だったという。

 そうした知られざる日本学術会議の一面に焦点を当て、声明に固執する姿勢を疑問視する論文が、本号の発売に合わせ、Wedge誌のオンライン版「WEDGE Infinity」で公開された。

 『国民に夢と自信を与えた日本学術会議』と題された論文の筆者は、京都大学の理学部と大学院で地球電磁気学を専攻し、電離層の研究に関連して防衛庁(当時)に入り、技術研究本部などでOTH(Over-the-Horizon)レーダーなどさまざまな新しい自衛隊装備の開発に携わった徳田八郎衛氏(82歳)である。

 徳田氏へのインタビューを交えながら、軍民両用技術を研究する必要性について論じていきたい。

朝鮮戦争で変わる国際情勢を
受け入れた学術会議

    勝股秀通(Hidemichi Katsumata)
       日本大学危機管理学部教授
1983年に読売新聞社入社。93年から防衛問題担当。民間人として初めて防衛大学校総合安全保障研究科(修士課程)修了。解説部長、編集委員などを経て、2016年から現職。

勝股 論文は冒頭、《国民の大多数から認められている自衛隊の存在や安全保障に、「社会全体では少数意見だが、ここ(学術会議)では多数意見」として否定的な決議を続ける学術会議の浮世離れした実態を訴えたかった》と記されています。論文をまとめた意図と思いをお聞かせください。

徳田 北朝鮮による核とミサイルの開発、強大化した中国の軍事力など安全保障を見る国民の目は大きく変わっている今、学術会議はなぜそうした変化を受け入れないのか、という思いが発端です。ただし、学術会議については、批判する側も、擁護する側も正しく理解していないことが多い。それも明らかにしたいと思いました。

勝股 最初に明らかにしたのは、1950年の声明の後に、学術会議内ではどのような議論が繰り返されたのかということですね。

     徳田八郎衛(Hachiroue Tokuda)
 一般財団法人 平和・安全保障研究所 
 客員研究員

1938年生まれ。61年京都大学理学部卒業、同大学院博士課程を経て防衛庁(当時)入庁。技術研究本部や陸上幕僚監部で研究開発に従事。その後、通信大隊指揮官、防衛大学校教授等を歴任。93年一等陸佐で定年退官。著書に『間に合わなかった兵器』(東洋経済新報社)等。

徳田 声明を出した2カ月後に朝鮮戦争が勃発(50年6月)します。その後、国内では再軍備などが議論されるようになり、学術会議の戦争に対する姿勢を再確認すべきと説くグループは、「戦争から科学と人類を守るための決議案」を総会に提出します。ところが、東京大学の我妻栄教授ら多くの委員からは「政治問題に踏み込むべきではない」「学術会議が統一見解を出せるものではない」「この種の声明は出すべきではない」といった反対意見が論じられ、大差で否決されます。その後も決議案は2度提出されるが、大差、もしくは採決すら行わずに否決しています。3回の否決が意味するところは、現実に朝鮮戦争が起きているという国際情勢の変化を、学術会議が受け入れたということだと思います。

勝股 現在の学術会議は、なぜ国際情勢の変化を受け入れないのか……という思いですね。それにしても、論文では当時の議論が詳しく紹介されています。どのような経緯で調べ、まとめられたのでしょうか。

徳田 大学院で地球電磁気学を専攻していた関係で、あとでお話しする南極観測に学術会議が果たした役割に興味を持ちました。ところが、博士課程を終えて防衛庁技術研究本部に入った直後の67年、ベトナム戦争のさなかでしたが、学術会議は「軍事研究に協力しない」という2度目の決議を出しました。なぜ、どうしてとの思いから、郷里の大先輩である東京大学の永井彰一郎名誉教授や、所属学会の大御所である東京大学の永田武名誉教授、京都大学では長谷川万吉名誉教授などから、学術会議で繰り返されてきた議論について詳細に聞かせていただいた。近年、それらの話を裏付ける史料も発表され、論文としてまとめた次第です。

勝股 南極観測に関する部分は、読み応えがありますね。

徳田 戦後の理学分野初の国際協力として南極観測が始まるのですが、敗戦国である日本の参加には、英連邦国などから否定的な意見が多かった。しかし、学術会議が「国際地球観測年」(IGY)の連絡委員会を設け、政府に代わって国際会議の場で参加を働きかけたことで、南極観測は実現する。まだ国連への加入も認められていない55年のことです。

勝股 敗戦国の日本が受け持つ地域は、各国が敬遠した難所のオングル島周辺。日本から南極までの輸送が大変でしたが、ここでも学術会議が果たした役割は大きかったようですね。

徳田 それまでの海上保安庁に代えて、自衛隊による輸送を政府に提案したのです。今では考えられないですね。初代の観測船「宗谷」の寿命や能力は限界で、南極観測は3年間中断し、65年に新観測船「ふじ」により再開されます。新観測船の名称募集に44万通の応募があったほどで、南極観測は国民的事業でもありました。その輸送をどうするか。63年の学術会議で議論され、南極関係者からの「輸送を任せられるのは防衛庁以外ない」という意見を、(のちにノーベル物理学賞を受賞した)朝永振一郎会長らが採択し、それを受けて政府が閣議決定しています。

東京港に帰港する南極観測船「ふじ」(1970年)
(THE YOMIURI SHIMBUN/AFLO)

勝股 自衛隊を拒否する意見もあったのではないでしょうか。

徳田 南極観測とは無関係の分野の委員でマルクス主義の先生からは、そうした意見もあったようです。しかし、学術会議の南極特別委員会から反対の意見はなく、委員会の先生方は、陸上幕僚監部の武器課や、まもなく私が勤務する技術研究本部を訪れ、極点到達に堪えうる雪上車の設計を依頼しています。10年後、より優れた新雪上車が開発され、陸上自衛隊の78式雪上車と南極観測用のSM50型雪上車が誕生し、30年以上も活躍します。

勝股 まさに軍民両用のデュアルユースですね。科学技術は本来、「軍事」と「民生」の両面で活用できるものであるにもかかわらず、学術会議は2017年にも1950年の声明を堅持し、防衛のための研究であっても忌避し続けています。

徳田 残念なことです。例えば、企業のサイバー防衛では、守るためには攻撃も知らなければならない。自衛隊のサイバー部隊を活用して、企業が能力を高める場面があってもいい。2015年度に始まった防衛省防衛装備庁の委託研究でも、当時の学術会議の大西隆会長は、自衛のための研究は声明と矛盾しないとの立場から議論を活性化させようと試みましたがダメだった。一部の過激な人に押し切られたとも聞いています。

勝股 かつて半導体で日本は世界を牽引していた。今や見る影もない。

徳田 半導体だけではありません。介護機材の分野でも同じです。介護ロボットは兵器にも転用できますが、その技術は世界でも日本はトップレベルでした。しかし、この4、5年は特許の出願数で中国に抜かれ、すっかりダメになってしまった。日本の科学技術の凋落ぶりは、新型コロナウイルス感染症に対するワクチン開発でも露呈したのではないでしょうか。


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