2024年4月26日(金)

家庭医の日常

2021年12月2日

原発事故後の県民健康調査が生んだ「インフォデミック」

 11年10月に福島県は「県民健康調査」の一環として甲状腺検査を開始した。11年3月の原発事故のあった時に福島県に在住していた18歳以下のすべての子どもたちを対象に、甲状腺の超音波(エコー)検査を20歳までは2年ごと、その後は5年ごとに繰り返し行う未曾有の大規模調査だ。

 この甲状腺検査は、今回の原発事故での放射線被ばくの人体への影響を知りたいという科学者の好奇心と、子どもたちにがんがあるなら早く発見して治療を受けさせたいという子どもをもつ福島県民の不安な気持ちとのいわば合作である。対象となる子どもたち約38万人の80%以上がこの検査(調査)に参加した。

 だが不幸なことに、先行検査として実施した初回の甲状腺検査で多くの子どもたちに異常所見が見つかり、その後の精密検査で、116人に悪性または悪性疑いの結果がでた。このことで、福島県民は多くの心理的負担と将来への悲観に苛まれることになった。

 状況をさらに悪くしたのは、SNSなどで拡散する大量の情報である。無責任で心ない質の低い情報はノイズとなって、さらに当事者の心理的負担を増した。当時はまだ「インフォデミック」という言葉は使われていなかったが、まさに現在のコロナ禍で「蔓延」しているインフォデミックの様相に似ていた。異なるのは、当時のインフォデミックに悩まされていたのが、ほぼ被災地の人々に限られていたことだろう。

 Y.S.さん親子も、「甲状腺検査の異常所見はすべてがん」という根拠のないメッセージに怯えてしまっていたのだ。特にEちゃんは「もう歌が歌えなくなる」とまで悲観して、人知れず何度も無理な発声練習をしていたそうだ。ちなみに、福島県は合唱が盛んで、学生から社会人まで全国大会優勝レベルの合唱団が数多くある。

 親子の不安を傾聴しつつ、私は甲状腺がんがどういう経過をとる疾患なのか(甲状腺がんの自然歴と呼ぶ)について、少しずつ2人の理解を確認しながら説明していった。

医療現場に数多くある不確実性

 甲状腺がんは、不確実性の多い疾患である。

 多くの甲状腺がんは進行が遅く、生命に危害を及ぼすことなく何十年単位で潜伏する。ただ、ごく少ない割合だが生命を脅かす進行がんになることがあるのも事実だ。

 厄介なことに、進行の早いがんとそうでないがんとを初期に区別することは困難である。精密検査と治療それ自体にも有害事象(副作用)を伴う可能性があり、心身への大きな負担となる。

 今回の県民健康調査の甲状腺検査で見つかった甲状腺がんが、11年3月の原発事故による被ばくによって生じたものかは不確かである。甲状腺がんは、放射線事故と関係なく世界中至る所で発生しているからだ。今までこんなに大規模に系統的に甲状腺がんを探索したことがなかったので、今回たまたま多数が発見されたとも考えられる。

 チェルノブイリ事故と比べて福島第一原発事故では、被ばく線量が桁違いに少ないこと、被ばくから甲状腺がん発見までの期間が1年から4年と短いこと(チェルノブイリでは事故後5年から17年まで甲状腺がん発見が増え続けた)、放射線への感受性が高いと言われる事故当時5歳以下の子どもたちからの甲状腺がん発見がないこと、県内の地域別に甲状腺がん発見率に大きな差がないこと、などを根拠に、今のところ今回の甲状腺がんの発生が放射線の影響とは考えにくいと言われている。

 だが、今回の原発事故のような低線量放射線の人体への長期の影響については、まだ科学的根拠(エビデンス)が乏しい。可能性が極めて小さいとは言え、それが完全には否定できないために今後も長期にわたるデータの集積が必要だと言われる所以である。


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