2024年11月22日(金)

日本人なら知っておきたい近現代史の焦点

2021年12月29日

 もっとも、山本の意見書とされているものが全くの偽書であるとは、現時点では断定できない。というのは、榎本の後年の回想として「本意見書を山本長官に送りたるところ、全く其の通りなりとの返書ありたり」という記載が、この意見書の現物(防衛省防衛研究所図書館に所蔵されており、昨年に一般に公開された)の表紙にあり、この榎本の意見書の内容はそのまま山本が抱いた意見と考えても差し支えはない、とも言いうるだろうからである。

意見書の内容がほぼ同一だった榎本重治とは?

 自らの筆になる意見書が山本のものと取り違えられるほどに、対外観に共通するものがあった榎本重治とは、どのような人物であろうか。彼は国際法を専攻し、東京帝国大学法科大学(現在の東京大学法学部)在学中に高等文官試験合格、卒業後に鉄道院書記を経て海軍省参事官となった。

ロンドン海軍軍縮会議から帰国した時の山本五十六(近現代PL/アフロ)

 国際法を専攻しており、海軍軍縮会議にはワシントン会議(21~22年)、ジュネーブ会議(27年)、ロンドン会議(30年)、ジュネーブ一般軍縮会議(32~33年)、ロンドン会議(第二次)予備交渉(34年)、同本交渉(35年)の全てに随員として参加し、30年と34年のロンドンにおける2度の交渉時には山本を法律面(や将棋の相手)において強力にサポートして以来、親しい交流があった。

 連合艦隊司令長官として43年に戦死した山本や、その後任として翌年に殉職した古賀峯一(海兵34期)が堀悌吉へ宛てた書簡、山本から嶋田繁太郎(太平洋戦争中の半ばまで海軍大臣、山本と海兵同期)宛の書簡、山本から古賀への書簡を一冊の書物に収めた「五峯録」を戦後、堀とともに保管し続けたのも、この榎本である。

 そして、日中戦争前後から太平洋戦争終戦までの間、榎本は、海軍省の法律顧問的な存在として(肩書は海軍書記官または海軍教授)、海軍大臣や次官の諮問に応じて意見を具申することができた。この意見書の残された記録から、36年から39年まで次官であった山本が、日中戦争の展開に対して榎本と協議の上、どのような方策を海軍省において打ち立て、外部に表明したかをたどってみたい。

日中戦争は「自衛行動に他ならず」という立場

 37年7月に北平(現在の北京)郊外で発生した蘆溝橋事件を契機として、軍事衝突は上海に波及した。このときの長谷川清第三艦隊(中国方面艦隊)長官は「自衛上必要なる手段をとる」旨声明を発して、事変は次第に中国全土に広がった。

 翌8月、長谷川はさらに揚子江以南、福州、厦門、汕頭に至る約1200キロメートルの中国沿岸一帯において、中国側船舶の通行を遮断することを宣言し、9月にはその対象域を全中国沿岸に拡張した。

 このとき榎本はまず、「支那事変に於ける帝国の行動は、支那側の帝国の正当権益及び帝国民の生命財産に対する不正なる侵害を排除せんが為の已むを得ざる緊急措置にして、全く自衛行動に他ならず」(「支那事変に於ける帝国の自衛行動」37年10月18日付)という立場を表明し、船舶通行遮断については「いわゆる平時封鎖であり、相手国に不法の行為があった場合に、これを防止するため復仇としてやって差し支えないことになっている。『戦争』ではなく『事変』においても、沿岸封鎖は平時封鎖として国際法上何等違法ではない」という旨を述べた。

 海軍航空隊による空爆が、国際連盟諮問委員会において「無防備都市への爆撃」であると決議された(37年9月)ことについては、「攻撃目標は厳格に軍事的目標に限定されている。海軍航空隊は支那の都市に対して、それが防御されているか否かに関わらず、都市それ自体に攻撃を加えたことはない」と反駁した。


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