聞き手・編集部(大城慶吾、友森敏雄)
写真・井上智幸
何百年も残る仕事が
してみたい
「私は中学卒業後、15歳で大工になった。みんなが行くから、高校に進学するという感じが、当時の自分には何か違うなと思えたからだ。1日の仕事を終えてへとへとになって帰っているとき、中学時代の同級生たちに出会うと、高校という道もあったんだなと思うことはあった。それでも、後悔はなかった。ただ、大工時代の先輩の中には『自分たちの人生はこんなもの』と、諦めている人もいた。私は逆に、そんなことはないはずだ。ちょっと遠回りしたぐらいで、残りの人生を諦める必要なんてないし、絶対やってやれるんだっていうことを見せてやりたい。それは、自分自身にも、自分の後輩たちに対しても思った。
20歳になったとき、中古車販売事業で起業した。学歴もないが、変なプライドもない。何も持っていないから、何かを持っている人たちに頭を下げて教えを請うし、教えてくれた人に素直に感謝もできる。『30歳までに日本中の誰もが知っている会社、経営者になる』という思いを持っていた。その後、地元の大阪・岸和田では一定の成果を上げることができた」
そんな時に、ライメックスにつながる「ストーンペーパー」に出会う。
「その前に、人生で初めて欧州を旅行する機会があった。ロンドン、ローマ、バルセロナ、パリを巡る中で、何百年前に造られた建物が、今も残っていることに衝撃を受けた。起業してからの10年は、あっという間に過ぎた。自分の人生、これをあと何回か過ごせば、終わりになるのか。だったら、何百年も残る仕事がしてみたいと思った。そんな時に出会ったのが、ストーンペーパーだった」
石灰石が主原料で、生産するための水はほとんど使用しないストーンペーパーに可能性を感じ、生産を行う台湾企業と日本の代理店契約をした。
「2008年に、台湾から輸入を開始した。だが、価格が高く、品質が不安定ということから、全く売れなかった。資金も底につくところまで追い込まれた。それでも、この素材の可能性を信じて、10年に独自技術による自社開発を検討した。しかし、リスクはあるし、資金繰りも厳しい。それでも、背中を押してくれたのは、さまざまな所で出会った人たちだった。『君がそこまで思い入れているならやるべきだ』と。
リスクという意味は、イタリア語の『risicare(リジカーレ)』が語源で、もとの意味は『勇気を持って試みる』ことだと教えてくれる方もいた。そうしているうちに、これは人生に何回かしか訪れないチャンスだと思えるようになった。チャンスに気づかない人もいれば、気づいてもチャレンジしない人もいる。自分は、チャレンジしようと思った。
11年にはTBMを立ち上げ、ライメックスを開発し、その後、宮城県白石市にプラントを立てた。なぜ宮城なのかというと、21歳のときに阪神淡路大震災を経験したことが影響している。岸和田から神戸に駆け付けたが、何もすることができなかった。もう一度、こんな経験をすることがあれば、必ず何かに貢献しようと思っていた。その後、東日本大震災を経験して、翌日には仲間と支援のために現場に入った。その後、ご縁があって白石市にプラントを建てることになった」