2024年4月23日(火)

チャイナ・ウォッチャーの視点

2013年5月16日

「日本返還」の裏に徳田球一の存在

 しかし中国共産党・政府にとって今、沖縄に対する日本の主権を否定することがどれだけ自分たちの歴史に「嘘」をつくことなのか、北京の中国外務省档案館(外交史料館)に収蔵されている外交文書は、如実に物語っている。

 中華人民共和国が1949年10月に成立した直後の50年5月、中国外務省は、来たるべき対日講和会議に備え、内部討論会を開き、領土問題、天皇制・憲法などに関する対日ポジションを議論した。

 同档案館にある「対日和約(講和条約)問題についてわが外交部が進めた討論会記録」は、内部討論会に出席した外務省高官や日本専門家らの発言を掲載したものだ。原文コピーによると、領土問題を議論した50年5月17日の討論会で、著名な日本専門家で上海の『大公報』紙副編集長・李純青氏は沖縄に関してこう指摘した。

 「経済的に何の価値もない。国防上の観点からも取り戻す理由はない。もし日本人に返せば、日本人に良い影響を与えられる。日本共産党の徳田球一もまた琉球人だ。(琉球が米中などの)信託統治にならなければ、日本に返還することもできる」

毛沢東時代以降、「沖縄は日本もの」は一貫

 徳田球一は当時の日本共産党書記長。現在の沖縄県名護市に生まれ、戦前の獄中生活は約18年間に及び、終戦直後の1945年10月にフランス人ジャーナリストによって府中刑務所で発見される。同年12月に書記長に就任し、46年に衆院議員に当選したが、50年の朝鮮戦争前夜、連合国軍総司令部(GHQ)による共産党中央委員の公職追放指令を受け、中国に亡命。在外機関「北京機関」を組織したが、53年に北京で病死している。

 死去の事実は55年まで伏せられたが、北京で開かれた追悼大会には3万人が集まり、劉少奇・全国人民代表大会常務委員長が代表して「徳田球一の死は日本人民の巨大な損失であり、中国人民も、誠実で尊敬できる友人を失った」と述べた。

 ここまで徳田を重視したのは、毛沢東が徳田を「反米」の闘士としていたく気に入り、評価していたということがある。

 当時、外務省にいた古参幹部によると、共産党対外連絡部副部長で日本通として対日政策に絶大な影響力を誇った廖承志氏は「日本共産党は琉球人であり、(中国に琉球を)取り戻すのはふさわしくない」と述べた。「(沖縄が中国領になれば)書記長が中国人になってしまう」との声も出たという。

 第二次大戦で連合国の一員として日本に勝利し、当時の中国を代表した中華民国では47年ごろ、「琉球は中国に返還されるべきだ」という世論が巻き起こった。中華民国の琉球政策を引き継いだ中華人民共和国でも、50年5月の前出・討論会では「日本が窃取した一切の地域を中国に返還する」としたカイロ宣言(43年)に基づき、「台湾と琉球は堅持すべきだ」と意見も出たが、徳田書記長をめぐる議論を受けて「沖縄は日本のもの」という見解が共産党・政府内では定着するのだ。


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