寄付との大きな違い
著者は「応援」と「消費」の間にある関係性について注目し、本書全体を通底する重要なテーマとして繰り返し論じる。それはなぜ消費であって寄付ではないのかという問題意識からスタートする。
著者は日本に寄付文化はなかったのかと問いかけるが、実はそうではないと指摘する。寄付文化はあるが、それを公言しないことを美徳とする風潮があり、これは「陰徳」と呼ばれる考え方であると紹介する。
寄付文化がないというよりは、寄付文化はあるかもしれないが目に見えないようになっている、ということになる。
寄付を公言すると寄付らしさが失われてしまうという姿勢だと著者は解釈するが、逆に近年は公言してもよいとする考え方も広がり始めている。そうした中で著者はこう指摘する。
贈与には、その対概念である交換の意味が浸潤しているのである。ふるさと納税の返礼品に対する批判はこちらに該当するだろう。贈与には本来返礼品があってはならないが、実際には返礼品が生まれる余地が常にある。
ふるさと納税が応援消費の一環になったという事実はまさにこのケースに当たる。ふるさと納税は返礼品が伴うことで当初批判もされたが、魅力的な返礼品を用意した自治体には全国から多くの寄付が集まり、地域社会や地域経済を元気づける効果を生んだことは確かである。ふるさと納税は納税と称しているが、形式的には寄付であり、ここにはまさに贈与と交換というメカニズムが生まれている。
著者はこう指摘する。
一九九〇年代、あるいは一九九五年を契機として、ボランティアがNPOへと姿を変えていったように、交換や支援、さらには寄付もまた、同時期に市場と結びつき交換化されていったのである。
ひとたび贈与がマーケティングに働きかけられると交換というシステムが生まれてくる、と著者が指摘するのは、ある意味、現代の世の中では納得出来ることである。もちろん純粋な寄付も存在するが、著者はこれを新しい消費社会の動きだと位置づける。
著書は以下のように分析する。
この社会の原動力である贈与は、どんなものであれ見出され、意識された瞬間に交換に変わっていく運命にあるのであった。(中略)例えば、ふるさと納税のように、寄付に対して返礼品を用意して寄付を増やすこと。あるいはボランティアについても、対価を設定してボランティアを行い安くすること。そして、応援や支援に対しても消費行為を対応させることで、ウィンウィンの関係を作り出すこと。アイドルやアーティストへの支援や応援も同様である。