しかし、日本は、この成長に大きく取り残された形だ。産業構造の変化に対応できなかった。市場が大きく変貌している様を見ずに、目先の価格競争やサプライチェーンの拡大ばかりに目を向けた。既存の製品のマイナーチェンジ、改良ばかりに目を奪われ、メモリからロジック(CPU)へと切り替わる時代の潮流をとらえることができなかったというわけだ。バブル崩壊の影響を受けて設備投資はほとんどなく、リストラなどが相次いだ。
こうした凋落の背景を分析すると、いくつかの要因が考えられる。
凋落の教訓 日米半導体協定の足かせ
一つ目は、米国の影響だ。1980年代半ば以降、車など日本製品が米国内でよく売れ、日米貿易摩擦が取りざたされた。日本車をハンマーで壊す映像が記憶に残る「ジャパン・バッシング」だ。
半導体分野にも波及し、この摩擦を解消しようと1986年に締結されたのが、日米半導体協定だ。その前年には、プラザ合意で、日本からの輸入に不利な円高ドル安への為替介入が行われたが、日米半導体協定によって、日本は米製品の購入を迫られ、一方で日本製品に高い輸入関税などが課せられた。
こうした逆境にもめげず日本は、DRAM(半導体メモリ)の製造力増強で対抗したが、90年代に入ると、米国メーカーは知的財産権への侵害を理由に、日本メーカーにジャブ攻撃を与えてきた。日本メーカーは、数千億円ともいわれる特許料を支払ったとされ、ただでさえ、バブル崩壊で屋台骨が揺らいだ日本メーカーには大きな痛手となった。
水平分業の失敗
二つ目は、水平分業の失敗だ。日本メーカーは、半導体製品の設計から製造までを一貫して自社で行う「垂直統合」に固執した。米国では、コスト削減の観点から80年代後半、設計から製造までを一貫して行う「IDM」(Integrated Device Manufacturer)を脱皮し、工場を持たずICの設計・販売を行う「ファブレス」と、製造に特化する「ファウンドリ」という業態(水平分業)にシフトする構造改革が起きていた。
一方、日本企業は、「せっかく工場があるのだからもったいない」というスタンスで、垂直統合を維持するため、目まぐるしく変化する半導体に合わせて設備を準備することに追われた。
これに対し、米国で起こった構造改革の流れに乗ったのが、台湾だ。70年代から国策として半導体産業育成を目指していた台湾に87年、世界初のファウンドリとして創立されたのがTSMC(台湾積体電路製造)だ。
テキサス・インスツルメンツ副社長だったモリス・チャン(張忠謀)が設立した。当初は、下請け的な存在だったが、アップルやグーグルと手を組むことで、今日世界をリードする世界最大のファウンドリの地位を不動のものにした。